犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

村上春樹さんの『海辺のカフカ』論ですとか

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 『落剥』の由名さんとご縁があって、ホームページを純文学同人誌のように改装する前に、三つの大きな文芸評論を書いたりしていました。

 

福永武彦論~サナトリウム文学の遺産」

村上春樹著『羊をめぐる冒険』論~北海道から見た日本近代」

村上春樹著『海辺のカフカ』論~自らが存在するための神話」

 

 おそらくは旧帝大文学部あたりからもアクセスがあり、そこそこ好評でした。

 検索すると評論は引っかかりやすいようですね。小説は引っかからないですが。

 ええと、カフカと言うと無論、『変身』とかのフランツ・カフカのことですが、統合失調症だったらしいですね。これ、『ノルウェイの森』のテーマが回帰しているとも考えられたため、作品論書いてみました。

 正確には雑誌のコンテンツではないのですが、「犬儒のHP」のコンテンツです。

 冒頭のところ、紹介させてください。

 

犬儒のHP〜本格派「当事者」雑誌

より、

 

 

 

村上春樹著『海辺のカフカ』論~自らが存在するための神話
   by 犬儒

 

●はじめに

 ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。
フランツ・カフカ 親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)

  村上春樹(1949-)の小説はそうそうハッピーエンドというものは少ない。おそらくその「幸福」は読者の方に存在すればよいのだろう。氏の作品は読者に時には悲惨でもある風景を提示して終わる。
  もし読者が不幸なケースの場合、作品に他人をもまきこむ幸福というのはそうそう在り難い。従って氏の小説でも在り難いし、おそらくは読者をもまきこむことも難しいのかもしれない。
  (端から結末のことを書いてしまうが、『海辺のカフカ』はハッピーエンドである。だが一筋縄では無論いかない。)
  ガツンと一撃して目覚めさせてくれはしようか。考えるに、我々には幸福らしい幸福が存在しないような、やや違和感のある「退屈」がありがちである。
  夏目漱石(1867-1916)の『こころ』(1914)では、主人公の青年はその退屈(無聊)に苦しんでいた。これは実のところ「孤独」であろう。人が孤独に思わないのは往々にしてある意味錯覚しているからである。
  ごまかしでなくその孤独を避けるためには、おそらくは人間には勇敢な行動が必要なのだろう。孤独には運命、宿命に似た暗黒があるのではないか。……それでもなおかつ、人は孤独に目覚めなければならない。

  人には無論多様な生き方があろう。だが、人間を精神的死においやる契機はあまりにも多いのではないだろうか。誰もがくぐり抜けていることも多かろう。ただ後で振り返れば、それは無論並たいていの労力ではなかった筈だ。一人の人間が大人になるということは並たいていのことではない。
  おそらくそのためには、その孤独という宿命を見極める必要がある。
  学校で素粒子のことを習うかもしれない。すべての物質を構成する根源的なもの。実のところそれは無論嘘ではないだろう。でも誰もが物理学者になるわけではないし、人類に迫るエネルギー問題を救えるわけでもない。
  「夢」を持つのは無論悪いことではない。だが、それが破れた頃、少年は気づくと思うのだが、自分にとって根源的なこと、それは「自分自身」に他ならない筈だ。そしてその「自分自身」を人はどこにも還元させることは不可能だ。

  村上春樹氏の主人公というと、大学生~三十代ほどの、作者の分身的な場合が多かった。例外としては長編では『スプートニクの恋人』(1999)の「すみれ」が二十代の女性であっただけである。
  『海辺のカフカ』(2002)では十五歳の少年となった。かなり思い切った転換である。
  このあたりの作者の考えの経緯は、私はあいにく知らないのだが、作者が自らと同時代を生き延びた主人公ではなく、新しい日本現代に棲む主人公、つまり今~未来を描きたいという何らかの欲求はあったのかとは思う。現代、今見えるものを虚心に見つめるということでもあろうか。

  『海辺のカフカ』は、人間の大人としての生成、あるいは再生の物語である。
  ただ、そう一筋縄では納まらない。なぜかというと、この主人公は時代の困難さをも背負わされているからである。
  主人公の名は「カフカ」、田村カフカと云う。


フランツ・カフカについて

 フランツ・カフカ、1883-1924、プラハ在住のドイツ語による散文作家。ユダヤ系である。商人の家に生まれた。「カフカ」はカラスの意を持つ。
  代表作は『変身』(1915)、『審判』(1925)、『城』(1926)など。(死後公開の作品がある。)
  どうも不条理な作品を書く作家である。例えば『変身』ではサラリーマンがある朝目覚めるとなぜか巨大な毒虫に変身している。また『審判』では何のいわれもないのに逮捕されて罪状も明らかにされず、なぜか仕事を続けるが何の呼び出しもない。一年後に理不尽に犬のように処刑されてしまう。

 こういった不条理な設定の文学はカフカ以前にはあまり例がなかっただろう。第二次大戦後には世界的なカフカブームになったとのことである。
  実存主義文学の先駆者とも言われるし、ユダヤ教思想と絡める捉え方もある。また精神分析の方法で分析する試みもあったよう。

  私であるが、実のところ彼の作品はさほど読んでおらず、不勉強のそしりはあまんじて受けるしかないが、病歴的なことに関して少し喚起しておきたい。

  25歳(1908)~32歳(1915)頃、不眠、頭痛などの神経過敏症状をはじめとして、特有な「嗜眠状態」、数々の象徴体験、疎隔体験などが断片的に現れたとの記録が残っている。

 (以下引用)
……眠れない昨夜、苦しい眠りのあいまに、僕は万事を繰り返しあれこれとやってみたとき、……どんな脆い土台のうえで僕は生きているのだろうか、またもやそんなことが意識されたのだ。書くことで僕は支えられているのだ。しかし、書くことでこういった種類の生活は支えられているのだ、といったほうがもっと正しいのではないのか? こういったからといって、もし僕が書かなければ、僕の生活がもっとよくなるなんてことをむろん考えているわけではないのだ。そうしたらもっと悪く、狂気の沙汰に終わるにちがいない。……書かない文筆家、それはむろん狂気を引き起こす怪物なのだ。
(フランツ・カフカ、マックス・ブロート宛の手紙、1922)

  統合失調症精神分裂病)であったという説が通説で、私もそれで語弊はないと思う。ただ、執筆活動により解体的な危機は免れたとも言われているようである。そして、作品にはスキゾフレニックな色合いが色濃く反映されているとみてよいかと思う。ちなみに、統合失調症の最初の有効的な治療法は1952年のクロルプロマジンメジャートランキライザー)の使用が嚆矢だった。カフカはその恩恵にはあずかっていない。
  この統合失調症の症状は、後年結核の病状が重くなるとかえって低減したようである。こういった死の契機が精神症状を軽快させるというのは良く報告される例でもある。

 (以下引用 カフカの短編『流刑地にて』について)
 カフカの小説についての僕の答えは、おそらく彼を納得させたのだろう。多かれ少なかれ。でも僕がほんとうに言いたかったことは伝わらなかったはずだ。僕はそれをカフカの小説についての一般論として言ったわけではない。僕はとても具体的なものごとについて、具体的に述べただけなのだ。その複雑で目的のしれない処刑機械は、現実の僕のまわりに実際に存在したのだ。それは比喩とか寓話とかじゃない。でもたぶんそれは大島さんだけではなく、誰にどんなふうに説明しても理解してもらえないだろう。
(第7章)

  これは統合失調症的な危機感である。この病の基調の気分は「怯え」と言えるかもしれない。不安と言い換えてもよいかもしれないが、怯えと表現したほうが的確なように思われる。
  おそらくこの「怯え」は近代、あるいは現代人が人工的な環境に対して感じることを拡大したような表れだとも思う。人間の能動的な理性の働きがもたらした機械文明などの発達は、現代人にかえって受動性を強いるようにもなった。あるいは経済や社会のシステムもそうだったろう。
  記録などの研究で、中世以前には統合失調症は無かったという説もある。たとえば魔女狩りの魔女はこの病気だったかどうかなど、定かではないようだ。ようやくそれらしき病例が報告されているのが十九世紀半ば頃であり、オイゲン・ブロイラー(1857-1939)によってスキゾフレニアがカテゴライズされたのが1911年のことであった。
  おそらくは、近代の状況が、同じ病気であったとしても、発現する症状に変化を与えたのではなかろうか。近代の工業化や都市化が病者に大きな変動要因を与えたのである。近現代的な不安要因であろうかと思う。
  言い換えれば、「処刑機械」は、統合失調症の症状として存在するのではなく、近現代という時代の属性として私たちの周りに存在するのである。ただ、病気によりそれをリアルに感じるか否かという差異でしかないのである。

不条理の波打ちぎわをさまよっているひとりぼっちの魂。たぶんそれがカフカという言葉の意味するものだ。」(第23章)

  ともかくも田村カフカ少年はかつてのフランツ・カフカと同じ危機感を共有している。

  少し振り返って考えよう。
  『ノルウェイの森』のヒロインの直子に関して、統合失調症であると推測すると反対する方もおられるかもしれないのだが、この病気の症状はいろいろな幅があり、直子のようなケースもありうる。巻頭言に着目すると、「多くの祭り(フェト)のために」ということだったが、これはスコット・フィッツジェラルドからの引用であった。彼の妻のゼルダ統合失調症を患い、精神病院の火事で死亡している。
  妻ではないものの、十代の頃村上の女性の友人もこの病気に罹患し、おそらくは縊死していることが推測される(『風の歌を聴け』でも友人の女性の縊死が描かれている)。この出来事が影響して、村上の作品は、狂気といおうか、正常な日常の「あちら側」のような表現がライトモチーフとなっているのではなかろうか。
  統合失調症は近代の人間社会の陰画的なものが症状として表される疾患である。そしてそのことを文学的に探求する試みが、村上をして「カフカ」に着目させたのではないだろうか。
  フランツ・カフカはその精神病的心性を、結核で早世するまで生ききった。『海辺のカフカ』の主人公の田村カフカ少年はその感受性において非日常的なものを持っている。そしてその感受性を作品の中で生ききっている。
  すなわち、きわめて近現代的なテーマが、主人公の状況により、この『海辺のカフカ』で表現されているのではないだろうか。

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