『海辺のカフカ』論、クライマックス部分!!
同人誌創刊前に書いた文芸評論ですが、今『ノルウェイの森』論を書いているわけですが、順番が前後しますが、既に『海辺のカフカ』論は書き終えました。
昨日でしたかもご紹介しましたが、最も盛り上がっているところ、ちょっと転載します。
これは深い諦観であると同時に、ある種の「信」だとも思います。
村上春樹著『海辺のカフカ』論〜自らが存在するための神話 by 犬儒
より、
●人間的なるものの他者
(以下引用)
この系譜学的な分析--それはフーコーにあっては「考古学」(アルケオロジー)というかたちに方法化される--が人間の同一性(identite)の基盤に見出すのは、さまざまな情念や、欲望や、意思などの複雑に絡み合った力の関係である。この力の関係のなかで、人間の同一性とともに、狂気、倒錯、犯罪、死など、人間的なるものの他者が生み出される。人間の同一性はこの他者との隔たりによってはじめて与えられる。だが、他者は人間と同じ由来をもっており、両者は「神の死」とともに生まれた双子の兄弟(分身)である。人間の同一性はこのような他者を内在化してはじめて成立するのである。
(以上、『ミシェル・フーコー』内田隆三、講談社現代新書、1990)
フーコーはニーチェの後継者といわれるが、この「他者」を内在化させた「人間」を「超人」と呼んでもいいかもしれない。
フランス革命では、王権神授説にあるような「神の代理人」の国王が処刑された。新たなブルジョワジーの時代では、人間の社会を安定化させていた「神話」が崩れたわけである。人は「おのれ自身をも根拠付ける審級」(内海健)の視点、すなわち神の視点を自らの内に内在化させた。
この内在化は他方では「他者」の排除として作用したわけである。
「他者」はもはや神の恩寵のなかにいられない。そして人が自律するならば、その目標は「他者」を峻別することから成り立つわけである。
フーコーのキーワードの一つ「人間の終焉」とは、こういった近代の人間概念を超えることについて言われたことだと思われる。
その人間が終焉したその先はどうなるか、何が目標とされるべきかというのは未知の領域に近いが、狂気に対する人の意識に近代の問題が垣間見えると思う。
たとえばデカルトの活躍のあとの「デカルト主義」に垣間見える問題である。「夢であろうと現実であろうと叡知的なものが成立したように、デカルトは夢と同様、狂気も排除してはいない。」「デカルトから狂気を排除したものが、まさにデカルト主義なのである。」(内海健)
このデカルト主義が排除した狂気が後に回帰してくることは必定であるのだが、「特権化された透明な内面」には狂気の居場所はみつからない。さらにいえば、この透明な内面というのは幻想なのでもあったろう。
(以下引用)
「で、結論から言うならばだね、君には私の進行をとめることができない。なぜかといえば、その資格が君にはないからだ。たとえば私はここでちょいと笛を吹いてみてもいい。すると君はとたんに私の近くには近寄れなくなってしまう。それが私の笛だ。
その笛が果たして結果的に善となるか悪となるか、それを決定するのは私じゃない。もちろん君でもない。私がいつどこの場所にいるかによって、それは違ってくるわけだ。そういう意味では私は偏見のない人間だ。(中略)偏見がないからこそ、私はひとつのシステムになることができる」
(以上、「カラスと呼ばれる少年」)
このジョニー・ウォーカーの言葉をデカルト主義に近似したこととして捉えられるかもしれない。だが狂気はかならず回帰してくる。デカルトのコギト同様の、あるいはバリエーションの主体化の作業というのは、近代人の青年期に必ず存在する。それは一つの死であり、その後に人は社会の中で居場所を見つけるのだが、その死~狂気を人は排除できない。
わかりにくくなったかもしれないが、こう書けばどうだろう。--私は真実を語ることは出来ない。私は偏見を持っている。人間は偏見を捨てることはできない。これは私の偏見だが、「偏見を持つからこそ、人は一個の人間になることができる」--私はこのようにしか書くことができない。すなわち私は狂気を心の中から排除できないわけである。