犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

「ある青春」~「『ノルウェイの森』論~統合失調症の恋人」より

●序にかえて~ある青春

 昔、僕には統合失調症と診断されている恋人がいた。1995年頃からだったろうか。「その恋はひどくややこしい場所に僕を運び込んでいた」(第一章)だろうか?
 正確には当時の病名で緊張型精神分裂病だった。緊張型という亜種は一番重いとされるが、彼女は幻覚も妄想も皆無で、混迷の極が目立ち時折興奮の極がある程度だった。
 出会ったときは病院に居て混迷の極を示していた。ただ、そんなに極端にまったく動けなくなるとか、さほどのことはなかった。スローモーでほとんどしゃべる気力がわかず、僕の前の席に座って何かを問いかけるように僕の瞳を見つめていた。やつれていたが、透明感があり儚げな若い女性だった。彼女はどこかに行ってもまた僕の前に戻ってきて僕の瞳を見つめた。沈黙に耐えられる関係は恋の成熟を示すのかもしれないが、僕らは瞬く間にそういう状態に達していた。そういう風にして彼女は次第に回復していった。
 四年後に、必ずしもさほどではないのだが理由があって彼女に「一応」プロポーズしたことがある。お金が足りなくて結婚できにくい事はふたりとも分かっていたが、しないと彼女を傷つけてしまう可能性があったと思う。
 その時の彼女の反応を小説の一シーンに表現したことがあった。


(以下、『落日』犬儒、本格派「当事者」雑誌、2010より)
「一生付き合いたいというか、君の生活がゆとりのある生き甲斐のあるものにできるはずだと思うのだけど」
 槇子の瞳孔が僕の目線を捉えて動かなくなってきた。
「結婚してほしいんだ」
 槇子はうつむいてそれを拒絶はしなかった。心なしか瞬きしなくなったように感じられたが、茫漠と僕の瞳を捉えて固まってしまったように思われた。僕は言葉をなくした。何を言えばいいんだろう。
 槇子は正座していたが、膝を崩すわけでもなく、考え込むというよりは僕の目のさらに遠くの何かを見つめるような茫漠とした目線だった。僕は何か、美しいものを壊したくないような気持になり言葉を発することができなかった。
 彼女の憔悴したようでもある表情とまなざしは僕の心に陶酔をもたらした。何か言うべきなようにも思われたが、それよりなにかを待つべきのようにも思われた。
 どれくらい時間が経ったのだろう、僕も目線をそらさなかった。ゆうに二十分くらいの時は過ぎたように思われた。
 僕は手を差し伸べた。槇子が手を取ってくれたので抱き寄せて背中を二、三回叩いて勇気付けた。
 彼女はまだ何も言えない状態が続いていた。鏡台に向かって髪を梳かしはじめたので、少し心残りだったがその日はそれで僕は帰ることにした。
(以上転載)


 事実的な事は必ずしも明確ではないが、僕と村上春樹氏は統合失調症の恋人がいたという点で共通しているのだろうか。
 1987年といえば、僕が既に社会人だった頃だが、春樹氏がヨーロッパで書き上げたという『ノルウェイの森』が発表された。
 氏の作品に初めて出会ったのが、二十歳の頃で、その当時僕は大学教養部でくだらない留年をしてローカル放送局で報道の照明係のアルバイトをしていた頃だった。随分待機時間の長いアルバイトで2年前に発表された『風の歌を聴け』から『羊をめぐる冒険』まで放送局の「バイト部屋」で読み続けていた。
 『ノルウェイの森』の前作の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も感銘の残る前衛性と抒情感を併せ持った作品だった。それで無論、赤と緑の上下巻、書店で見かけて早速読んでみたが、短編集『蛍・納屋を焼く』に収められた『蛍』を長編化したもののようだった。
 当時僕は統合失調症の事をよく知らなかったのだが、その当時、あるいはもっと以前から自分自身が徐々にその病に蝕まれていたのかとも回想する。人格が崩壊するというか、僕はどうも成育歴的に荷物を積み残したために人格が形成されていなかったような感覚すらあった。
 僕より一回り、12年前の主人公達の大学生活のほうがはるかに豊かに描かれていた。僕は将来的に東京で活躍しようという気持ちなど全くなく、大学も東京に所在するものは最初から避けていた。当時の入試制度で国公立大学は一校しか受けられず、私立大学に進学できる家計の状態でもなかった。入試の容易さの都合で、ぽつねんと誰も知り合いのいないような仙台市で大学生活を送っていた。
 二百数十人が住む木造の学生寮は三棟でブロック(所属サークル)があり二人部屋だったが、どうも僕は大学というより、その寮で「人格」の薫陶を得たような気さえする。
 北海道で活躍するのならば、北海道大学に進学したほうが好ましいとも思われたが、実のところ、僕自身は自分が21歳くらいで寿命で死ぬのではないかとか、そのくらいの絶望感しか持っておらず、将来どんな仕事をやろうかとか、何ら夢を持っておらず、実家が農業だった為、まあ、有利な仕事のサラリーマンにでもなるのかなどと、ほんとんど人生でサラリーマンと会話すらしたことのないような状態で漠然と思っていた程度だった。
 少年期に得られなかった物、少年期にやりたくてもできなかったことはあまりに重く、僕は決定的な違和感を持って少年期を過ごし、青春期にさしかかっていた。
 合格可能性が若干低いと思われた北海道大学理類は避け、一年の遅れも許されないと思ったためにリスクを冒すことはできなかった。
 一次試験が終わってみると、思いのほか点数がよく、国立大学医学部に入れるくらいの点数で、願書を追加して取り寄せることももうできなかったため、そのまま二次試験を受けて進学したが、キャンパスでは大きな懐疑を持ちながらぼろきれのような幻滅状態で大学で工学などの講義を受けていた。僕は何をやればいいか迷っていたとしか言えない。あるいは自分はなにかをやるべきだと思ったが、それはわからなかった。自分は何にも成れず、何も出来ないように感じていた。
 あまりにもの無頓着さのため教養部で留年したときには雑巾にもならないほどボロボロになっていた。
 講義がさっぱり分からず、一日に無駄時間が6時間もあるような体験は初めてだった。寮に帰ると気になっていた小説を読んだり思想書を読んだりしていた。それは高校の延長なんてものではなかった。
 ……時系列が滅茶苦茶な文章になっているのだが、僕はいまだに深く混乱している。僕の大学生活が1980年からで、キャンパスには学部の2年先輩でのちのノーベル賞田中耕一氏がおられた頃だった。
 当時僕にあった心情は「孤独」と「流浪」だった。
 その心情は仕事に失敗して帰郷するまで続いた。地方風の資格などもなかったため、就ける職を求めて大都市に戻ったりしたが、短期間でまた郷里に帰った。
 二十代は失われた10年間のようなものだった。ようやく青春のような思い出を作れたのは33歳の時に出会った一人の若い女性のおかげだった。「美しい思い出の為に」、彼女とのいきさつは中編小説『暁』(本格派「当事者」雑誌、2010)にまとめた。
 彼女との恋が自然消滅した頃僕はアマチュアベースで文学活動を始めた。
 「孤独」「流浪」「崩壊」はその頃ようやくセルフ・アイデンティティの回復の兆しを見せていた。

 

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