「福永武彦論~サナトリウム文学の遺産」(犬儒)のご紹介
昔、パソコン通信でニフティーサーブってありましたけど、その時代くらいにおおよそ書いた文芸評論です。
大学の頃に福永の作品を愛読していたのですが、戦中、戦後の問題とか僕なりに考えました。
最後の長編『死の島』では、原爆症で精神疾患の画家のヒロインがでてきます。精神疾患を扱った病者文学としては先駆的だったかもしれません。
『死の島』は7回読みました。
もう14年前の発表になるかな、早いですね。
ちょっと冒頭だけ紹介します。興味がわきましたら、ぜひ『犬儒のHP』いらして読んでくだされば。正確には同人誌ではなくて、その前のコンテンツです。引用が多いので、原典は読んでいなくてもおおよそわかると思いますので、よろしくお願いします。
より、
福永との出会い
僕が福永の作品に出会ったのは大学の頃だった。正確には高校の現代国語の参考書で短編『廃市』の一部に出合ったのが最初だろうか。九州の運河の町柳川を舞台にした水面に微妙な渋い光が反射されるような、ある種の雰囲気をもった作品だった。
大学でもっと読んでみたいと思って探して、『草の花』あたりから読み始めた。当時キリスト教はかつての帝国主義のような流れに抗議したりしていたが、戦争を止めることは出来なかった。ただ、戦前から意識のあった人は戦争を止められなかったことを恥じて責任感を感じていたということを知った。
現代の僕の周りにはちゃらんぽらんな宗教かぶれの人々が無責任な行動をしたりしていたが、昔からの意識の高い人がいたということは救いのように思われた。
戦争は人が個人的に生きられることを妨げ、大きな流れの中に、人々は身を置かざるを得なかった。自分が単に宗教者だとか、芸術家だとか、そういうところに安住させない大きな流れだったろう。
その中で福永が弱い体力を押して自覚を持った生き方をしたというのは、大きな過去の遺産ではないかと思った。
『忘却の河』の主人公は、戦地にも行って、「革命運動」もして、結核も患ったという設定だった。これは全共闘世代などよりもっと昔の意識の高かった自覚を持った人物像だったろう。
マルクス主義は20世紀最大の宗教だったとも言われるが、福永はそういうことにも必ずしも無関心ではなかったし、ドグマや体制への反動ではなく、社会運動や人間というものの中の理想を透徹して見つめつづけた人だったと思う。
のちほど、年表を引用するが、福永は晩年受洗して、キリスト教徒として死を迎えた。ようやく自分自身を個人として許すことができたということかもしれない。戦争や病気や、失われた青春や大きな絶望感に対して、精神的な意味合いでの「復活」のようなものを祈ったのではなかろうか。その祈りを文学の形にしたのが最後の長編『死の島』だったような気がする。
そういうことで、『死の島』を中心にして、福永論を展開してみたいと思います。僕も力不足ですが、よろしくお付き合いください。
福永武彦の年表
まず、年表から行きます。ちくま日本文学全集の年譜から抜粋します。 (少々編集)
1918(大正7)年
3月19日、福岡県筑紫郡二日市町に父・末次郎、母・トヨの第一子長男として生れる。父・末次郎は三井銀行福岡支店に勤務。母・トヨは日本聖公会の伝道師であった。
1941(昭和16)年
3月、東京帝国大学文学部フランス文学科を卒業。
1942(昭和17)年
参謀本部第18班で暗号解読に従事。この秋、中村真一郎、加藤周一(中略)らと「マチネ・ポエティク」を結成、定型押韻詩を作る。12月、招集をうけるが盲腸炎手術後のため、即日帰郷。
1945(昭和20)年
2月、急性肋膜炎で東大病院に入院。4月、北海道帯広市に疎開。7月、長男・夏樹誕生。(注:芥川賞作家の池澤夏樹さんです。)
1971(昭和46)年
『死の島』を刊行。
1977(昭和52)年
10月27日、世田谷区松原の単立キリスト教朝顔教会井出定治牧師により病床で洗礼を受ける。
1979(昭和54)年
8月13日早朝、死去。
病気で戦争の前線に行かなかった、サナトリウム文学という区分けになるかもしれません。
時代背景としては、「軍国主義を選ぶか、キリスト教を選ぶか」というような選択のときに、ぎりぎりの選択として「私は自分の孤独を選ぶ」と言った人かも知れません。
↓↓ 凄い落ちちゃったのでプチっとお願いします。(^^;;;