犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

「サナトリウム文学の遺産」より、統合失調症について

犬儒のHP〜本格派「当事者」雑誌

に「福永武彦論~サナトリウム文学の遺産」(犬儒)ってあります。

 もう前世紀に書いたものですが、自らが結核を患ったいわゆる「サナトリウム文学」の作家で福永武彦さんていたんですが、48歳の時に最後の長編『死の島』(1971)を発表しています。

 原爆症精神疾患の画家のヒロインが出てきます。

 結核ではなくて、精神疾患をテーマにしたわけです。

 現代のように精神医学は進んでいませんでしたが、なんというか、苦悩とか葛藤とか、そういう心理は同じだと思いますね。

 心理、綿密な表現がされた小説です。

 PTSDの要素などもあると思うのですが、統合失調症との関連性を考えて書いた節があるので、ご紹介します。

 統合失調症で、「離人感→世界没落感→能動性消失」と進む病型などはあるようです。

 

 

(「福永武彦論~サナトリウム文学の遺産」犬儒、2000、より)

 

世界の没落

 現代人って、理想とか美に向かう存在としてではなく、恐怖から逃れようという生き方でしか生きられないのかもしれません。最早ヒューマニズムではなく、人間であることを恐れながら生きるというか。

(以下引用)
 そういう彼女に一体どんな魅力があるのだろう、と相馬鼎は考え続けた。虚無と混沌、無関心と冷たさ、絶望と不幸。そうした否定的なものにも拘らず、彼女は奇妙な吸引力を以って周囲の人たちを吸い込むのだ。まるで闇が目の見えない鳥たちを包み込むように、まるで深淵が意志を持たぬ枯葉を呼び寄せるように。僕自身が盲の鳥、命のない枯葉なのだ。萌木素子を虚無の上に描かれた美とすれば、一体そういう美を愛するなどということが出来るものだろうか。
(以上、『死の島』「170日前」)

 萌木素子を冒していた病というのが何なのか、それはこの小説のテーマと同様の深さを持っているので一言では説明できないでしょうし、読者の心の底に密かに沈んで一生謎を残すものかもしれません。ただ、謎、謎とばかり言っているのもなんですし、アプローチしてみますか。

(以下引用)
ワタシモ今、夢ノ中デ歩イテイルノカモシレナイ。ダカラアンナ不思議ナ人タチ、人間ダカ物ダカ分ラナイヨウナ亡霊タチガ、ユルユルト歩イテイルノヲコノ眼デ見テイルノカモシレナイ。勿論ソウデハナカッタ。コレコソ現実ダッタ。シカシ彼女ハソレヲ知リナガラソレヲ認メルコトガ出来ナカッタ。
(以上、同「内部 I」)

 離人感という感覚があります。一過性の離人感は一般人口の70%の人が体験するようです。自分の思考や行為に自分が関与しているというという感覚が得られず、外界のものが何かぴったりこないとか、ベールを通して見ているような感じがするとか、自分が機械仕掛けであるかのように、夢の中にいるかのように、また、自己の身体から遊離しているかのように感じる感覚。自己の身体や自我は奇異に感じられ、現実感がなくなる。

 ムンクの『叫び』(1895)をイェンス・ティイスという人が言葉で表現することを試みています。

(以下引用)
 たそがれ、陽が沈んでいく。だが、それは絶望した人間のさいごの夕べのように、恐怖的なたそがれである。空は炎となり、フィヨルドは血の海となってうねる。橋、欄干、家、人の姿、すべて火炎のなかでゆらめく。固いものは溶け、溶け流れるものは凝固する。大気はねばく厚い。地面は足の下でもちあがり、沈む。
  叫びがひびきわたる。死の奈落のきわに立たされた人間の叫び。声は地獄のように赤い夕映からひびき返る。--いや、この叫びはひとりのみじめな人間が死に面してあげた叫びではない。叫んでいるのは大自然である。
  海であり、大気であり、大地である。昼が、いま、夜に呑みこまれようとして断末魔の声をはりあげているのだ。
  やにわに、地と海と空と、みな消える。だが叫びはのこる。叫び声はひとりの男の姿となって--その男の頭は全部底なしの喉となって、全世界をみたす叫び声がそこからひびきでる。
(以上引用)

 「内部」との近似性は感じていただけると思います。
  むろん、萌木素子の恐怖は彼女だけのものではなく、大自然、その大自然が作った人類の恐怖でもあります。人工的な環境の恐怖というのもあるでしょう。
  それは死の恐怖であるだけではなく、生の恐怖でもあるのではないかと、そんな風に思います。

 

連合障害

(以下引用)
一番先にいる男がデッキのドアを明けるのと同時に、雪まじりの寒い風がさっと吹き込む。彼は前の客に続いて下りる。どうやら雪はこの辺でも降っているらしい。眩いような電燈の光に照らされたプラットフォームには荒涼とした感じで、大して客の姿も見えない。電気時計の長い針が、今しも四時三十六分から三十七分に移動する。がらんとした構内に駅員のアナウンスが響いている。
 「ひろしま、ひろしま、呉線は乗換……。」
  彼の耳はどうかしているのか、その「ひろしま」が彼にははっきり「死のしま」と聞こえる。彼は身顫いし、他の客たちを追い抜くようにして改札口へ急ぐ。彼のうしろからそのアナウンスが執拗に追い縋る。
 「死のしま、死のしま……。」
(以上引用『死の島』「暁近く」)

 音韻というのは詩の基本でもありますし、福永はマチネポエティックグループで日本語による定型押韻詩を試みた人でもありましたが、精神分裂病の主症状の「連合障害」という症状で音連合により意味や観念が分裂し、無関係なものが結合されるというような症状があります。なにかコンプレックスがある言葉に似た音の言葉があると、その言葉を聞くことによりコンプレックスが刺激されてダメージを受けるというような感じです。

 相馬は自分の小説により二人の心につながることが出来ると思っていたわけですが、理性を越えて単なる音の響きのようなもので暗黒が心に迫ってきます。この相馬が軽い精神病の症状を起こすことは彼の心が素子につながることでもあるかもしれませんが、その分結末が……。(おっと、ばらしてはいけない。)

 得意になって素子に見せたベックリンの「死の島」の絵が、現実の土地において不吉な二重映しになります。

統合失調症(精神分裂病)について追記

 Schizophrenie(造語のラテン語精神分裂病統合失調症)の命名者のオイゲン・ブロイラーが援用した心理学はイギリス経験論の中の連合心理学でした。
  1911年頃、彼が発案して病名が定着しました。
  ブロイラーが考えたのは、主症状としては観念連合の障害、感情鈍麻、自閉など。場合によって幻覚妄想、あるいは錯乱などがある場合もあると、当時、治療薬などがない状況で把握したようです。

 通常ならきちんと連想関係にある観念同士が、異様な結合や分裂をするわけですが、たとえば、単語レベルでの連合障害はダジャレのようなことで頭が飽和し思考が崩壊したりします。
  テレビの「笑点」などでも駄洒落は情けなさそうに自虐的に発表される場合が多いですが、たとえば、煙草とライターが連合しているのはいいとします。で、煙草と玉子が結合してライターが浮かんでこなかったらどうでしょう。このようなのをもって「分裂」と言います。
「怒らせちゃイケナイゾ、ゲキリン、キリン、ミョウチクリンか? ムエン・ガソリンだ。モエン・ガソリン……どうしてガソリンが燃えないのか。あ、煙がないからモエン、ムエン。そうじゃないだろ、鉛だよ、鉛中毒。僕、殺されなくちゃイケナイの?」
(『やさしさの精神病理』大平健、岩波新書、1995、p.107「縫いぐるみの微笑み」より連合障害の例)

 経験論は行動心理学に流れていったかもしれませんが、理性主義の流れが認知心理学になっているでしょうか。基本的に実験心理学が興った事により連合心理学は没落したのですが、この精神「分裂」病について、あらたな基礎となってくれるのはどんな心理学なのでしょう。
  別に心理学が基礎にならないでもいいのかもしれませんが、この病気に生理的、物理的な検査は「健康」を示すだけです。つまり、診断は心理的な精神科医の判断に拠っています。

 ちなみに僕の話ですが、田舎から大きな都市に行ってみすぼらしい服装で歩いたら一発で離人感を感じて、後もそんな厭な事ばかりでした。なんなのかな?

 そちらの「観念連合の分裂」ではなくて「統覚」とか自明性(コモン・センス)の障害という病気観もあるようです。人が夏の森に行って「すがすがしい」と感じる(どこの器官ででしょうね、こういうのが統覚の働きらしいのですが)のに感じられない人もいる。例えばそういう事が極端な事だとか。

 必ずしも学説が時代とともに進んでいるわけではなく、Schizophrenieという病気が時代とともに社会状況を反映しつつ変化していて、医学者がそれを追いかけているとも考えられます。

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