当事者文学の梁山泊『本格派「当事者」雑誌』より
ホームページは2000年からやってたんですが、2005年の由名さんの原稿を得て、『本格派「当事者」雑誌』という純文学同人誌として改装しました。
純文学というか、僕らが書くとどうしてもシリアスになるようです。
由名さん、文学賞落選しているのですが、最大の原因は審査員が医学的考証の裏付けを取れなかったということでしょう。アインシュタインが相対性理論でノーベル賞を取れなかったのと同じ理屈です。
下世話な話も多くなりますが、『ノルウェイの森』を読んで空想にふけっているより、『落剥』を読んだ方が実用的には、というか、意義もあると思います。
今日も少し転載します。
の、『落剥』(由名)より、
二週間後。精神科クリニックの先生は、入院設備のある病院の名を告げて、もしもっと悪くなったら、そこを紹介してあげるから、大丈夫です、と、なにが大丈夫なのかわからない私にゆっくりと話した。脳が疲れているので、お薬をしっかり飲むように、あとは休んでください、とのことだった。
冬じゅう私は、クリニックに通院して、服薬するのが精一杯だった。病名は知らされていなかった。薬の副作用が出て、じっとしていられなくなり、私はよく部屋や外を、とくに家を出てすぐそばの鴨川の周辺をぐるぐると歩きまわった。歩くことに目当てはなく、私は働くこともできなかった。白茶に変わり果てた川の草々が、病み尽くした私の心を撫で、このままここで土に顔を塗(まみ)れさせて眠ってしまいたいと、私は何度思ったかしれない。わけがわからないままにしがみついていたアルバイト生活であったのに、そこからも完全に転落してしまった私は、心にずっかと穴が開き切ったかのように、かなしみに撃たれて、なんら意味のある行為も生成することができなくなっていた。
二ヶ月ほどして、実家から毎月仕送りをしてもらうことになった。大好きだった父が、心配して電話してきてくれたので、私は、疲れが出てちょっとお薬を飲んでいるだけなのよ、すぐよくなるから、家には帰らないで大丈夫、お父さんも来なくて大丈夫だから、と繰りかえした。
「両親に会えばすべてが、崩れてしまう気がして」
と、私は米田さんに話した。
「今までバイトと奨学金の残りで生計を立ててきたからかい?」
「意地じゃないんです。『自分』を守らないといけないって。『すべて』をうしなうことをなによりの恐怖に思うから。でも、その恐怖を、乗り越えないと・・・」
「乗り越えなくていい、乗り越えちゃだめだ」
彼は懸命に制止した。
「すべて」をうしなっていないだけに、残りの全部を自殺のために使い切ってしまうのではないかという米田さんの不安は、的はずれではなかった。「すべて」をうしなってはいけない、最後の恐怖を乗り越えてはいけない―米田さんは私にそう言い聞かせた。
最後のものを乗り越えるときの独特の恐怖、自分が死の虚空に投げ出されてまったく無意味な、無機質な、無重力な他と切り離された存在になる決定的な瞬間の心の動揺、そういったものを米田さんがどれだけ体験的に知っていたのか、私としては的確に想像するすべがない。彼はもしかすると、私とかかわることによって、そうでなければ人生のうちで出会うはずもなかったほどの深甚な恐怖をまのあたりにしなければならなかったのかもしれない。それでも彼がその恐怖に際しても一向拒否的でなかったことは、身に纏うことのできる希望をぎりぎりまで失くした私が、彼のそばで黙って目をつぶることを可能にしてくれた。ただ米田さんが居てくれたということ、それは生きていくなんの具体的な方策の線も私の心に彫り込みはしなかったが、私は次第に、自分という木材にそのまま触れていたわることに、生命の抵抗を覚えなくなったのである。
彼が、仕事を早く済ませてクリニックの夜の診察に一緒に行ってくれたときのこと。私は細くした目の中に斜め上の空をすうっと映し込んで、今、印象深く思い出す。
診察室に入って二人並んで座ると、主治医が、
「ええっと・・・」
と、米田さんが誰であるかを問いただそうとした。私は普段から主治医に話している、米田さんだと言おうとした。だが米田さんはそれより早く、
「友人の米田といいます」
と早口に名乗るだけ名乗ったのであった。どこかそんな、おとなであることを感じさせないぶっきらぼうさ、不用意さとでもいわなければならないものが、ときどき彼にはあった。一風変わっている彼には、いつもぎくりとさせられる私だった。
「ご友人、ですかあ・・・はい、はい」
主治医はうなずいたが、私たちの年齢差からしてどうにもふしぎそうだった。私が主治医に話している、「よくお世話になっている米田さん」と、前触れなく目の前にあらわれた実物の米田さんとが、主治医のなかですぐには結びつかなかったのだろう。私は主治医にあわてて伝えた。
「あの、下の階に住んでおられる米田さんです、いつも話してる」
「あっなるほど、はい、はい」
今度の主治医の「はい、はい」は、「よく、わかっているよ」という意味の返事になっていた。
そんなふうにその夜の診察が始まって、私が話しているあいだ、米田さんは主治医のデスクの横にあるカウチ(精神分析用の寝椅子)にずっと目を向けていたが、主治医から、
「どんな具合でしょう、茨木さんは」
とたずねられると、急に弾かれたようにあかるい声で、
「ええとですね、大丈夫だと思います。それは、いろいろと不安定な言動はとってるんですが、僕には、前の彼女のほうが、その、病気になる前のね、彼女のほうが、地に足がついてなかったというか、そんな感じがするんです。人を不安にさせるところも大いにあった。今は、藍子さんが自分を見出していくプロセスにあるんじゃないでしょうか?」
米田さんのことばはなにか自信の輝きさえあって、聞いていた私は正直に驚いた。夜の帳が一気に引いて、眼前に強い朝焼けが広がったかのようだった。
主治医も米田さんの態度にすこし圧倒された様子で、
「そう・・・ですねえ、まあでも楽観視はしないでください。服薬だけで、いけると思うんですけどね、万が一のことは・・・」
「楽観視ではないです。彼女が彼女に相応しい苦しみは、これくらい深いものだったんでしょう。僕はそれを否定的にみたくないんです。結果はわかりませんけど、必要なプロセスなら、僕もつきあおうと思ってます。万が一のこと、それにも僕なりに力になりたいとは思ってます」
「そうですか・・・いろいろと複雑な事情もあるんでしょうから、僕にもなんとも言いかねるところはあるんですが・・・」
主治医は、私と米田さんの関係が、実際にまのあたりにしてもよく理解できなかったのだろう。だが、私は米田さんの堂々とした姿に心を叩かれ、励まされる思いがした。私が私に相応しい苦しみ―そうだ、私はずっと昔からの私の直接的帰結として、こうなっているのだ。いや、いや、まだ帰結ではない、これからどうつづいていくかに、私の命も懸かっているのだし、不安に満ちたそのプロセスは、しかしながら、けっして否定さるべきものではない。私は米田さんのことばに導かれて、新しい自分自身の道を歩き出せるような気がしてきた。
だが、私の病状は、上がったり下がったり、予想以上の危なさを通過しなければならなかった。夜になって、私は漠然とした恐怖から部屋を飛び出して大通りをうなる風に吹きつけられて歩き、ひっきりなしに通る対向車のぼやけたライトがどれもこれも私を轢こうとしているように感じ、助けを求めて入ったコンビニの菓子が並ぶコーナーにある柱の鏡に映る自分の姿を見て、はっと身のすさぶ思いをしたことなど、忘れがたい病的な体験が今になっても私を改めてうちのめすことはすくなくない。そして、あのころの私、藪の中で腕を動かさなければならないような不自由な生に陥った私はやはり、病前とはまた違った意味で、明日の色さえ見えない毎日に、自分自身、おびえつづけなくてはならなかった。