拙著『ノルウェイの森』論より、(単純型)統合失調症について
以前にも作品論のこの部分ご紹介したことがあったのですが、もう3ヶ月も前になるので、再掲します。
それにしても、「幻覚も妄想もない。最初から病識がある」というの、珍しいことかとも思うのですが、「単純型」だとあるようです。
僕に関しては、分裂気質(孤立しやすく、羞恥心を感じやすい)が極端に強く、逆境が重なったため、体調を崩したとも考えられますが、まあ、実のところ、現代医学でもすっぱり割り切れる精神疾患もないのかもしれません。
「直子=単純型統合失調症」説はインターネットではある程度注目を集めているようです。提唱者は、まあ僕なのかな。
では、
村上春樹著『ノルウェイの森』論〜統合失調症の恋人 by 犬儒
より、
●「統合失調症」
人類の1%弱程度が罹る難病である。
青春期に多く罹患する。
幻聴、被害妄想などの症状が有名であるが、1911年にオーストリアの医学者オイゲン・ブロイラーによってこの病気がカテゴライズされた時は「四つのA」、すなわち「連合障害(認知・思考の障害)」「無為自閉」「感情鈍磨」「両価性(アンビバレンス)」が基本的主症状とされた。
また、「自我意識の障害」のような症状もあり得る。自他の区別がつかなくなり、内面の語りなどが他者からの声だと感じてしまったりする。あるいは盗聴されているような気がする、とか、サトラレているような気がするなどという症状もある。
幻聴等、こういった「ない筈のものがある」という「陽性症状」に対して、「ある筈のものがない」というのが無為自閉、感情鈍磨などの「陰性症状」だった。
この疾患では陰性症状が先立つという説も有力である。
『ノルウェイの森』のヒロイン直子の病例を取り上げると、自殺直前に幻聴などがあったとあるが、陰性症状が先立っている。
米国の診断マニュアルにはないが、国際診断マニュアルでは「単純型統合失調症」というのがある。
(以下転載)
ブランケンブルクの『自明性の喪失』のデータを確認する。
一九五五年から一九六七年までの間に旧西ドイツの大学病院の精神神経科に入院した四〇五名の精神分裂病の患者のうち、破瓜型が一五三名、妄想型が一六八名、緊張型が五九名、残遺状態が二五名。破瓜型のうち九名は単純型といってよい、とのことだ。
単純型が四百分の十として二.五%、精神分裂病の発病率を一%で概算して四、五千人に一人だ。僕はどうも自分が単純型精神分裂病のような気がしている。幻覚・妄想がなく無為自閉などの症状が前面に現れる。
珍しいことでも起こるときは起こるが、自分がどうかというのはわからない。
(以上、『暁』犬儒、本格派「当事者」雑誌、2010)
『ノルウェイの森』が発表された当初、阿美寮の雰囲気もあり、直子の病気に関しては何かロマンチックな普通にはないような病気というような論説が先行していた。村上春樹ファンのメーリングリストにおられた他科の医師の方でも、統合失調症という事を否定されておられたが、2010年公開の映画『ノルウェイの森』で表現された彼女は統合失調症以外の何ものでもなかった。
陰性症状がこの病気の本質的な側面だという指摘もある。
患者の訂正しがたい妄想等に関して、「病識」の問題がよく話題になるが、統合失調症患者のうち2割程度は最初から病識を持っている。単純型統合失調症のケースではほとんどに病識がある。例えば「うまくしゃべることができないの」(第二章)というような自覚する言葉があった。
先にも述べたが、無知な論者にスケープゴート化されやすい疾患である。反社会的な刑事事件などが起こると、実態を知らない論者は「精神病だった」などと主張する。論者の中でその「精神病」に具体的な知識があればいいのだが、分からないで主張する。
実のところ、人の多い街などを歩いていると、統合失調症患者などは一日に何人も見かけているのが当り前なのである。
2006年に改正されたが、日本の障害者雇用促進法でも精神障害者への対策は知的障害者より遅れた。実のところ未だに統合失調症患者は「犯罪者より悪質な悪霊に取りつかれたような人物」だ、などと認識している半可通もいるかもしれない。
考えてみてほしい。そんなことを言うならば中学生時代に非行に走った少年の末路を想像するとよいかもしれない。家庭をもてたとしてもDVや児童虐待等をする危険性は十分ある。精神病患者はそういう反社会的アイデンティティを持つタイプの人々ではない。
村上春樹氏が『ノルウェイの森』で描く直子の姿は、あまりにもリアルで時代の先、人々の「常識」の先を行っていた。
主人公のワタナベはそういう直子の世話をし、責任を取ろうと考える。これは当時の精神科医療の投げやりさの遥かかなたの誠実な取り組みだった。
結核の問題が鎮静化し、癌の治療なども進んでいる現代であるが、「致死率」の高い疾患である。
あるいは、ハンセン氏病の問題でも存在した差別と偏見が付着している疾患でもある。
キルケゴールは「絶望は死に至る病である」と看破した。でも、その絶望をもたらしているのは疾患自体の問題ではなく、社会の偏見の問題なのではないだろうか。
中学や高校でクラス替えがあったりすると、クラスメートの一人か二人以上ぐらいは在学中、あるいは将来この統合失調症に罹っていると計算出来る。
非常に重いテーマが『ノルウェイの森』で語られている。
●「自然な自明性の喪失」
どうもこの論説も前置き的なことが長くなってしまったのかもしれない。テキストに戻りたいと思う。
(以下引用)
「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしっかりと握ったままそう言った。そしてしばらく黙って歩きつづけた。「その手のことって私にはよくわかるの。理屈とかそんなんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたとしっかりくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとしないのよ」
(『ノルウェイの森』村上春樹、講談社、1987、第一章 p.12)
このあとワタナベが一緒にいようというと直子が「人間関係ですらない」と反発する。
(以下引用)
「あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの?ねえ、そんなの対等じゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう。」
(中略)
「肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなことを言ってもらたって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい? もし私がいま肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって--どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの? それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」
(同、第一章 p.14-15)
ときどきひどく淋しい気持ちになることはあるにせよ、僕はおおむね元気に生きています。君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をしたりするように、僕も毎朝僕自身のねじを巻いています。ベッドから出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服を着がえて、寮の玄関を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいコリコリとねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと生きようと思うわけです。自分では気がつかなかったけれど、僕は最近よく一人言を言うそうです。たぶんねじを巻きながらぶつぶつと何か言っているのでしょう。
(同、第七章)
1952年頃に最初の統合失調症に有効なメジャートランキライザーのクロルプロマジンが使用され始めた。「単純型統合失調症」とするならば、有効そうな治療薬は1973年に国内でも発売され始めたスルピリドあたりが有効だろうか。賦活効果がある治療薬だが、物語はそれ以前の時代である。
直子の状況なのだが、転地して「作業療法」をやっているわけである。
精神病理学者の内海健は「精神分裂病とは根源的疎外である」と述べていた。単に土いじりなどがヒーリング効果があるというだけではなく、原初の人類のような生きている動植物などと生活を共にすることにより、都市的人工環境の疎外性から逃れる。直子に提示された「血路」がそういう生活だった。
ただ同時に人間関係が壊れているとも言えるわけである。
同じく精神病理学者のブランケンブルクの言葉を借りると「世界・他者・自己との自明なかかわり方の喪失」が起こっている。「当たり前のこと」が恣意的に感じられてしまう。彼女の懐疑は自己を超えた強大なものであり、「当たり前」の日常性を破壊している。
もう一つ血路を考えるならば、コミュニケーションの可能性はないだろうか。愛は不可能なのだろうか。
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