才女由名さん、ボーダーのヒロインの話もあります
2005年創刊の『本格派「当事者」雑誌』の土台を固めてくださった、まあ心理学者の由名さんの京都を舞台にした精神疾患の小説群で、なんとも付かないんですが、境界性パーソナリティー障害のヒロインとか、アスペルガー症候群の登場人物がいる小説もあります。
『離脱』といいますが、お時間があったら、お読みくださっても。
正確には心理学者ではないのですが、学会で発表なさることなどもあるようです。
また冒頭の方転載しておきますね。
の
『離脱』(由名)より、
一
私は窓枠を何度もがたがたと揺さぶり、大声でわめいた。突き上げるものが次々と猛々しい罵りとなって部屋の中の空気を裂いた。わめきつづけると、張り詰めた声が伸びをうしなって直下に雪崩れ込み、ついには途切れたが、まだ無声さえ噴出する勢いを胸に感ずる。右手の指に食い込ませていたサッシを遠く突き放して、窓ガラスが割れることを願いながら、私は再びありったけの声の根を掻き集め、
「また、そうしてるやないの! あんた、なにか、早く、言ってみなさいよ!」
健嗣(たけつぐ)は、むにゃむにゃと口元でことばを含んで、噛んで、床に散らばりひびの入った数枚のCDのケースを拾い集めた。
「元居さん」「もう、やめてくれよ」
「なにを」
「人が変わったじゃないか。それは一時的なことなんだよ。元居さん、ほんとに俺に腹立ててるのか? どうしてだかわからないよ」
私はバッグを掴んで、ゆらゆらしながら玄関まで歩き出て、ドアを大きく開けた。
「さよなら!」
背中から健嗣の声は、降ってこなかった。
雨上がりの鴨川は、水量が一気に増して、流れが速くなっていた。流れとおなじ方向に歩いていくと、私の脚も川の一部になってしまい、歩みがあふれ出て、次へ次へと過剰な攻勢をかける。靴の裏には濡れた土がぺったりとはりつき、ときどき、忘れるなとばかりにでこぼこの石が土踏まずに食い込んでくる。私は流れに沿って歩くのをやめた。きつすぎる。
急激に暗くなってくる空を、首が痛くなる角度まで曲げて見上げながら、私は、健嗣に対してなんの恨みも怒りももっていないことを悟っていた。健嗣に対しては、空白だ。それを埋めるものをこれから、たしかに探さねばならないのではあったが、とにかくこの対象のない怒りを私の皮膚に染み込ませて、消化してしまわなければならない。外のものに向かって当たるのは、間違っているのだ。私は誰にも殴りかかることができない……。
私は息をゆっくりと吸って、そしてさらに時間をかけて吐くように心がけた。これには努力を要した。それでも、呼吸とともに気持ちがおさまってくると、数時間後には自分があのマンションに戻って、健嗣のベッドに猫のように潜り込むのだろうと冷静に予測がたって、今の怒りの意味も、中身も、まったく反芻できなくなった。
猫のようになったらあかん。―母親は、そう言っていたっけ。私の母は、猫のように男性にすり寄り、たよる女にはなるなとよく言っていた。母にどれだけの恋愛の経験があったかわからない。私が見ていたのは、ただただ父に対して深い絶望を向ける彼女の姿だけだったから。私は今、健嗣にたよっているような気がする。それでも、母が指していた次元とは、またかなり違ったたより方のように思われた。
健嗣とは、つきあっているのだが、これが恋ともなんともつかない、妙な関係だった。
彼とは、私が大学時代に例外的に熱心に出ていた他学部の近代思想史の授業で知り合った。それは小さなゼミであったのだが、教官である彼はほとんど自信なさそうに、反省的に、一度言ったこともときどき丁寧に言いなおしたりしながら、授業をすすめていった。私は彼の様子が変わっているので、とても魅かれて、授業のあとで素朴な質問さえして、健嗣のことを知ろうとした。
健嗣の研究室に私はときどき足を運んでいたが、一度だけ大学近くのひなびた喫茶店で、二人で話をしたことがあった。研究室からの帰り道に、ちょっと寄りましょうということになったのだ。私はそのころも、いつも、進路をめぐって、思い悩んでいた。私は文学部美学美術史学科にいたが、健嗣のいる総合人間学部に転学部して近現代思想をやろうかと考えていた。しかし、その先、研究者の道をすすもうという気持ちはあまりなく、卒業後の進路のことを頭に浮かべると、たちまちにして私の眼前は真っ黒な垂れ幕に覆われてしまうのだった。
「先生、私、考え過ぎかもしれません」
「そうだね……僕も、そんなに進路を深く考えはしなかったかもしれないな」
「なにかもっと考えないといけないことがある気がして、いつもそんな気がして、そうして……ぐっと奥のほうで、頭痛が起こってくるんです。そんなこと話したこと、ありませんでしたね。すごく変な頭痛です」
「頭痛ですか。考えないといけないことって、なんなんだろう?」
「私が幸せすぎるから」
言ってしまってから、私はこれは健嗣とのあいだにふさわしくない、プライベートすぎる話題なのだと気づいて、さっと血の気が引いた。私はすぐに、
「いえ、場違いなことを言いました」
「そんなことないでしょう。自分の幸せと、すすむ道とを、よくよく合わせて考えることは、必要なことだよ」
「私の個人的な生活の幸せなんて……」
「僕は元居さんと話してるんだよ。元居さんの個人的なものを知らなくて、どうするの?」
それを聞いた私はしばらく沈黙したあと、
「幸せと頭痛が互いを責めあって……」
とだけ言ったが、声が足りず最後がすぼまった。
「やりたいことをやりなさい、頭痛があっても、とかね、そういう、参考にならないような助言をするつもりはないよ。考えなくちゃならないことがあるって言ったでしょう。じゃあ、やらなければいけないと思うことを、やったらどうだろう、と僕は思うね」
「そう言ってもらえるほうが、助かります」
私は自分のこわばった表情がすこし溶けるようにやわらぐのを感じた。
「総人(総合人間学部)に移って、ハイデガーの流暢な語りの中に潜り込んで、後世の哲学者の思想にもつなげて読み解いていく作業に没頭します。文学部ではだめです、学部の伝統からくる課題の山に押しつぶされます。もっと自由な空気で、自分の頭にのしかかる重圧だけでやりたいんです。そうしてそれから……社会の中でなにかして生きていくつもりです。哲学思想とはなんの関連もなくていいです。なんだか血迷った人生になっちゃうでしょうか」
「いや、そんなことはないでしょう。そのままでいいと思います」
私のその希望、あるいは目標を、私は叶えることができなかった。健嗣とそんな話をした数ヶ月後、私は大学を中退してしまった。
健嗣と再会したのは、私が大学を中退して、京都ではじめて就職した会社を三ヶ月で辞めたあと、硝子工場に勤めるようになって、疲労とともに暮らしを重ねていたとき、とあるスーパーで、買い物客どうしとして出会ったのである。私は視界のどこかに懐かしい健嗣の姿が映っているのに、それが菅根先生だと気づくところまで頭が働いていなかった。頭の隅がかすむような感覚で、健嗣の前を通り過ぎようとしたとき、彼が、
「ああ、あの」
と、声をかけてきてくれた。
「大学、中退したんです」
私は健嗣との会話のかなり最初のほうでもうそれを話した。
「事情は、ありましたが、今でもどうしてだかわかりません。あっという間にやめてしまったんです」
健嗣は、
「うん。そうですか」
「意外じゃないんですか?」
「うん」「元居さんは、そうしてもおかしくないと思っていたよ。半端なことができないんでしょう?」
「でも、考えてみたら、あと一年で卒業のはずでした」
私はくいと悔しい気持ちが心にきつくにじむのを感じた。すると健嗣は、
「勉強は、つづけるといいですよ」
と、さも当たり前のように言った。
「勉強、今からですか、するんですか?」
「元居さん、俺んとこ来て、勉強しませんか」
「え?」
こんなに驚いたことばはなかった。彼は、
「そうでもしないと、つづけにくいでしょう?」
「なにか、教えてもらえるんですか?」
「西洋哲学史だけどね、いいかい?」
健嗣はひどく情けなさそうに笑った。彼が手に提げたスーパーのビニール袋のくたびれた皴が、何本も目立って見えた。買い物客たちのにぎやかな空気の中に、ぽっかりと健嗣と私だけの奇妙で特殊な空間ができた。
その場で彼と電話番号を確認し、メールアドレスを交換したのだが、次の日の夜、彼からメールがあった。
……昨日はなんだか的外れな申し出をしてしまったのかもしれません。あなたの中退は、僕には驚きではなかったのですが、それでも心痛みました。だから、僕にできることがなにかないかと思ったんですね。K大にまた来るのがつらくなかったら、僕の研究室で教えますし、僕は横浜からこちらに単身赴任中で、ひとりで住んでいますから、僕の自宅でもかまいません。専門書を読んでいく手助けならできますよ。どうですか―。
めぐりあわせの大きなねじがぎぎっと回ったのだった。私は健嗣の「手助けの申し出」に沿って、K大学の彼の研究室で哲学史を教えてもらうようになった。授業ではほんとうに自信なさそうだった健嗣は、哲学と深い関係にある言語学、精神分析学、生命科学、社会学などについても詳しく教授してくれた。
工場勤務のあとで、健嗣が貸してくれた専門書を私の部屋でひとりで読む時間と労力をとるのは、けっして楽なことではなかった。それでも私は、差し伸べられたこの手にしがみついた。その先になにがあるのだか、わからなかったが、毎日の肉にこたえる労働から雲のようにかけ離れたこれらの学問は、私が現実のどの場所に自分の所在を定めたらよいのかを、たえず真摯に問いかけていたような気がする。
健嗣は、ずいぶん長いあいだ、学問の話しかしなかった。私もそれに沿った会話しか起こさなかった。
週一回か隔週、健嗣に学問の紐解きをしてもらうそんな日々が三ヶ月ほどつづいたある日、私は健嗣のマンションについて行った。大学近くのごちゃごちゃした区画内にあるマンションの部屋は、思ったほど広くなかった。いつ人が来ても困らないほど、整理整頓されていて、研究者にありがちなように部屋が本や紙類であふれていないのは、いかにも几帳面な健嗣らしかった。
「コーヒーを入れるよ」
「先生、子どもさんはいるんですか」
「二人ね。まだ小さいよ」
「いくつ」
「六歳と五歳。年子だ」
彼の声は、厚い布地を通して聞くようなくぐもった響きをしていた。その声を聞いて、私は彼との間柄はどういったものなのだろうと、私が学籍をうしなった今ではどこか理解しがたい思いで首を傾けていた。
三十八歳のときに助教授に抜擢されてK大に赴任してきたが、国立大学ももうすぐ独立行政法人化するので、この先の身分はどうなるのかわからないままだ。横浜のマンションは転勤のすこし前に分譲で購入したもので、自分としては関東の大学で、マイペースで研究ができるような環境のところで落ち着きたいが、ここにいるのが長くなるのであれば、妻子を呼び寄せるつもりだ。健嗣はそんな経緯と希望を私に話していった。
「ああ、ごめん、俺の話ばっかしちゃって」
「いえ、聞けたほうがいいんです」
「元居さん、頭痛のほうは?」
「え?」
私ははるか以前に話した、妙な頭痛のことを、健嗣がまだ覚えていてくれることに驚いた。
「覚えていてくださったんですかー」
「うん。幸せと頭痛」
健嗣と私は、顔を見あわせて悲しく笑った。
「今は?」「今は、幸せと頭痛はどうなのかい」
健嗣がきいてきた。
「幸せは、ちょっと前に、最後のものが砕け散って、頭痛だけが残りました」
私は頭を垂れた。そして、自分で自分を確かめるように、
「自分で砕いたんです」
と言いなおした。窓からカーテン越しにそっと漏れる夕陽であるのに、私の肩はそれを受けて黒ずんで縮まってゆき、床の上に沈殿物のように固まった。
「元居さん……」「なにか、俺にできることがあるかい? 俺は元居さんの事情、まだよく知らないけども」
「いえ、十分してもらっています。……菅根先生」
私は彼を見上げ、呆けたようにうすく笑って、
「なにか、私、使い果たしてしまったみたい」
と漏らして、こらえていた胸がつめたく崩れ落ちていった。
「うん」
健嗣はけっして否定しなかった。私の疲労は涙のようにぬぐわれた……健嗣の指によって。健嗣は虫のようにかぼそい手つきで私にふれ、それから、長い時間ためらったあとで、私をしんなりと抱いた。
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