犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

鬼武彦さんの村上春樹作品論『1Q84』(ヤフー検索1位)

 昨年から6回にわたり連載していただいていました、鬼武彦さん(谷口水夜さんの別ペンネーム)の『1Q84』論、7月7日発表分をもって、連載終了です。

 原典は3巻合わせて300万部売れた、ベストセラーでした。

 「青豆さん」と新興宗教の絡みなど、示唆的な問題提起がありました。

 7月7日に『本格派「当事者」雑誌』の方で発表しますが、『1Q84』を読んだけど、評論はまだという方など、ぜひご覧くださればと思います。

 ここでは遡って、「1上」の評論の冒頭を転載します。

 

犬儒のHP〜本格派「当事者」雑誌

の、

小説『1Q84』論(1)〜現代の叡智    鬼武彦

より、

(以下引用)

 

 

 

村上春樹著『1Q84』新潮文庫 1

 

(引用開始)

 

「もちろん」と青豆は言った。そのとおりだ。ひとつの物体は、ひとつの時間に、ひとつの場所にしかいられない。アインシュタインが証明した。現実とはどこまでも冷徹であり、どこまでも孤独なものだ。

 

村上春樹著『1Q84』新潮文庫1 第1章 27ページ)

 

 これはタクシーの運転手が青豆に、「現実はいつだってひとつしかありません」と言った言葉を受けて、青豆が考えている言葉だ。

 一見、当たり前のようでいて、「はて、現実は本当にひとつだけだろうか」という反語を、この文章は内包している。はたして、現実はひとつだけだろうか。私たちが普段、「現実」と思い込んでいることでも、それは単なる思惟内容であったり、現実の側面の、一方から切り崩した価値観であったりする。そういう、主観と言えるものを私たちはしばしば現実であると思い込み、錯覚する。ある意味、現実は飽くまでも、多様なものなのだ。

 ただ、その多様な現実の中で、ほんとうのものはひとつしかない、という作者のメーセージが隠されている、とも理解できる。それは現実に限らず、すべてにおいてだ。

 

 

 

(引用開始)

 

 そこには偏見が多分に含まれていたが、彼にとっては偏見も真実の重要な要素のひとつだった。

 

村上春樹著『1Q84』新潮文庫1 第2章 50ページ)

 

 これは、天吾が世話になっている編集者の小松という男の描写である。偏見のない人間は居ない。逆に偏見があるから人間なのだ、というのは、犬儒氏の言葉だ。もちろん、それはそうなのだが、だから偏見を持っていてもいい、ということではない。小松という男も、偏見がいい、とはもちろん思っていない。けれど、悪を内包した偏見にも、真実の重要な、要素、はある、と考えているだけだ。

 

 

 

(引用開始)

 

 精神の鋭利さが心地よい環境から生まれることはない、というのが彼の信条だった。

 

村上春樹著『1Q84』新潮文庫1 第2章 50ページ)

 

 これも小松という男の人物描写だ。なるほど、平々凡々と生きている人間に、精神の鋭利さを要求するのは、無理な話だろう。

 天吾は、小松のことを、こう描写する。

「彼はむしろ孤立することを好んだし、他人に敬遠されることをーーあるいははっきりと嫌われることをーーけっこう楽しんでもいた。」

 

 僕は、孤立することを特に好まないが、白人社会の中で生きていて、必然的に孤立するような境遇にある。それは決して心地よいものではない。が、鍛えられる側面が多いせいか、精神も鋭利となるのは、やむを得ない。それは20歳の坊々のときには無かった、精神的特徴ではある。

 

 

 

(引用開始)

 

 その一方で君には文章が書ける。筋がいいし、センスもある。図体はでかいが、文章は知的で繊細だ。勢いみたいなものもちゃんとある。ところがふかえりちゃんとは逆に、何を書けばいいのかが、まだつかみきれていない。だから往々にして物語の芯(しん)が見あたらない。君が本来書くべきものは、君の中にしっかりあるはずなんだ。ところがそいつが、深い穴に逃げ込んだ臆病(おくびょう)な小動物みたいに、なかなか外に出てこない。穴の奥に潜んでいることはわかっているんだ。しかし外に出てこないことには捕まえようがない。時間をかければいいと俺が言うのは、そういう意味だよ」

 

村上春樹著『1Q84』新潮文庫1 第2章 60ページ〜61ページ)

 

 小松が天吾に話している言葉である。

 これは、単に小説を書く作法に限らない、若くて繊細で才能があるが、いまいち現実社会でその才能を発揮できない、青年一般の読者に対する助言にもなる。

本当の自分のやりたいことが分からない、というのは、モラトリアム青年の一般的な特徴だろう。より具体的に、何をして行けばいいのか分からない。ただ生きて行くために、与えられた仕事をこなして、その日の糧を稼ぐのが精一杯である。

 しかし、自分のほんとうにやりたいことは、ほかにあるはずだ、という思いはあるのだが、如何(いかん)せん、自信も自覚もないので、闇の中を右往左往するだけである。

 上の言葉は、よく玩味して読むと、若くて何を具体的にしていいのか分からない、青年諸子には、ヒントを与える言葉である。

 

 

 

(引用開始)

 

 うす暗い穴ぐらにうじゃうじゃ集まって、お世辞を言い合ったり、傷口を舐めあったり、お互いの足を引っ張り合ったりしながら、その一方で文学の使命がどうこうなんて偉そうなことをほざいているしょうもない連中を、思い切り笑い飛ばしてやりたい。システムの裏をかいて、とことんおちょくってやるんだ。愉快だと思わないか?

 

村上春樹著『1Q84』新潮文庫1 第2章 62ページ)

 

 同じく、小松の天吾に向けて話す、言葉である。

 これは、文壇に限らず、少しく知性があり批判精神に富んだ人間なら、一度は社会に対して夢想する思いである。現実というのは、嘘とおべんちゃらと虚飾に満ちている。一方、ほんとうのもの、を絶えず追い求める人間にとって、このお上手と追従(ついしょう)に満ちた世の中というのは、鼻持ちならないものである。この虚飾とおべんちゃらの社会で、うまく上に上って威張りちらしている奴の鼻を空かしてやりたい、と思うのは、真正な人間の人情である。

 

 

 

(引用開始)

 

 唇は笑おうと努力しているが、目はそれに抵抗している。生真面目(きまじめ)な目だ。何かを求める目だ。天吾はその二枚の写真をしばらく交互に眺めた。なぜかはわからないが、その写真を見ているうちに、その年代の頃の自分のことを思い出した。そして胸がわずかに痛んだ。それは長いあいだ味わったことのない特別な種類の痛みだった。彼女の姿にはそういう痛みを喚起するものがあるようだった。

 

村上春樹著『1Q84』新潮文庫1 第2章 65ページ)

 

 これは、ふかえり、本名は深田絵里子、の写真を天吾が眺めているときの感想だ。

それは、真面目に生きている人間なら、誰しも共感する痛みなのかも知れない。それは、ときに孤独であり、コミューンの外に絶えず生きることを強いられた人間の痛みとも言える。嘘が言えない、お上手や追従ができない、ひとに媚びることも、おもねることもできない。世間の流れからいつも離れて、川岸に立つ、辺境の人間とも言える。世の中は、彼らの側にはけっして立たない。喧噪と愚劣から離れて生きる人間の痛み。希望のない川。

 

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