久しぶりに『ノルウェイの森』論(検索1位)続き書きました。
今日は興が乗ったので中断していた「村上春樹著『ノルウェイの森』論~統合失調症の恋人」の続きを書いてみました。
レイコさんの事などです。
の、
村上春樹著『ノルウェイの森』論〜統合失調症の恋人 by 犬儒
で、書いてあるところまでは読めますので、なんでしたらご参照ください。
●Tea break ~ 春樹さんがノーベル賞を取れない本当の理由?
(Q&Aのサイトでの補足より)
早速のご回答ありがとうございます。
補足質問というより、とりあえずのお礼なんですが。
1949年、ポルトガルの精神科医エガス・モニスという人が「ロボトミー手術」の発案によりノーベル生理学・医学賞を受賞したことがあります。
頭蓋骨に穴をあけて前頭葉の手術をします。
これは、現代では全く非人間的な治療法ということで、行われていないのですが、最初の有効な統合失調症の治療法のメジャートランキライザーを1952年に合成・使用し始めたフランスの外科医兼薬学者のアンリ・ラボリという人がいますが、この人はノーベル賞を受賞していません。
外科手術の前の麻酔の際にショック死を減らすためにクロルプロマジンを処方したら、外界の事に無関心になって落ち着くという効果があったため、統合失調症に転用したらいいのではないかと精神科医にアドバイスしたらしいです。
このクロルプロマジンは今現在でも使われるくらいの治療薬ですが、ラボリはノーベル賞受賞できませんでした。
モニスからノーベル賞を剥奪すべきだという運動は今現在でもあるようです。
ひとえに統合失調症に関するデリケートな問題が、村上春樹さんのノーベル賞受賞を妨げているのではないかと思います。
氏の代表作『ノルウェイの森』は現実の医学につながる可能性のある、デリケートな作品です。
ノーベル賞委員会はモニスの件で統合失調症関係の学者等の受賞には懲りていると思います。
非常に微妙な、政治的問題じゃないのですが、人道的な問題みたいなことで、『ノルウェイの森』に「認印」を押せないのかもしれません。
これは現実の人々の生死とかかわる問題だからです。
これが村上春樹さんがノーベル文学賞を取れない本当の理由なのかもしれません。
個人的には世界的に意義があった作品かと思います。
阿部公房さんなどももう少し生きていたらノーベル文学賞は受賞できたそうなんですが、村上春樹さんは、逆説的かもしれませんが『ノルウェイの森』のよって、取れないのかもしれません。
氏のよく使う用語で「デタッチメント」「コミットメント」という用語がありますが、『ノルウェイの森』は最大の医学的コミットメントでした。
これはぎりぎりのものでした。
氏が受賞することによって、軽薄な人々がぬか喜びしている図とか、あまり想像したくありません。
光でした。
それが超新星か彗星か人工衛星かはまだ分からないのです。
僕は本物の光だと思いますし、それで僕は暗闇の中で光とは別の方向に歩くことも出来るのです。
村上春樹さんに感謝したいです。
●レイコさん
実のところは、人はピアノ演奏で指が動かなくなったというので精神科に入院したりはしない。
心因で体などが動かなくなる病気は例えばフロイトの報告していたような古典的ヒステリー等もある。
日本の精神科は2,3割は誤診があると言われている。3軒クリニックを回ったら、3軒とも診断が違った、等ということはざらである。誤診の割合を考えると難しい科だが、精神科は小児科の次に儲からないので優秀な医学生が選ばないことが多い。
1990年代以降、発達障害の概念が定着してくる前は、「わからなかったら精神分裂病」という診断の公式のようなものがあった。これは例えば自閉症児(発達障害)を福祉のレールに乗せることが出来るが、誤処方・誤処置なども起こりやすい。
冒頭で僕の恋人の話を少し書いたが、「緊張病」は、
・統合失調症
・躁鬱病
・古典的ヒステリー
で起こりえるららしい。古典的ヒステリーの原因は性的欲求不満とされるが、僕と恋愛状態にあるときは彼女は特にスローモーにしか動けないというような症状は起こらなかった。例外はプロポーズの際の葛藤の時だった。
誤診の可能性も高い。
そうすると、この評論の大前提「統合失調症の恋人」からして崩れてしまうのだが、精神疾患を総体として捉えるしかないのかもしれない。
小説内にも病名は出て来ないのだが、これは医学的考証の矛盾等を避けるという意味もあるが、やはり「病」ではなく「人」を診るという方法でもあったかと思われる。
直子に関しても「単純型統合失調症」だと筋が通るという、僕の自説のようなものなのだが、実のところ、僕がその単純型統合失調症であるかさえはっきりしない。
「分裂気質」という性格類型があるが、簡単にまとめると「孤立しやすく、羞恥心を感じやすい」という、統合失調症に親和性のある性格類型である。僕のケースはこれが極端で社会不適応だという例とは言えるかもしれない。
レイコさんは高度なピアノ演奏技術を持ち、この繊細さは精密機械並みである。高度な精密さはちょっとしたことで狂ってしまう事がある。控えめにはその程度の論評しかできない。
彼女が阿美寮に入る直前の事件は、実のところ正常な心理で全くのところ捉えられる。やはり「人」を診ることが大事だろう。
過去の「わからなかったら精神分裂病」という診断基準は、入院病棟を「百人百様」状態にしていた。基本的イメージは「貧民管理」の「十把一絡げ」の入院治療であった。
先にも述べたが、発達障害者、知的障害者、パーソナリティ障害者などが「精神分裂病」という事で入院していた。
だからこそ、一人一人について、病のレッテルではなく、ケースを診ていくことが大事だと思われる。
『ノルウェイの森』は、ある意味では人間の尊厳を取り戻すための創作作業だったともいえる。