今日は親父の82歳の誕生日です。ぴんぴんしてますよ。
昭和8年、『蟹工船』の小林多喜二が虐殺された年、父は小樽市で生まれました。
港湾労働者をやっていた祖父は父がゼロ歳の時、事故死しました。祖母は聴覚障害4級でした。
ええと、この前親父が市内の老人大学の文集に寄稿した文書があるので、ちょっと転載します。
自分史の中から
九十九大学4年 小○ ○○
私は、昭和8年小樽市に生まれる。6人兄弟の6番目で次男として生まれる、生後43日に、父を労災事故で亡くした。
母は、和寒に居た祖父を頼って身を寄せた。その後再婚したが離婚をした。私は和寒小学校に入学したが1年生の正月に母は下士別の笠○○○と再々した、水田7町歩を持った農家で、応接間もある大きい家でした、その後4人の妹が産まれた、
義父は勤労意欲が欠けていたため、5町歩の土地を売って離農した。義父は線路西にあった土管工場に勤め、社宅にはいった.
私は、下士別小学校を卒業して、士別小学校高等科から中学校へと進み卒業した。私は定職にもつかず、冬は造材山、夏は農家の叔母家に住み込みで、働いた、稼いだお金は全額、家に入れた。
その頃が、1番惨めな思いをした。義父が失業したため、社宅を出て、よその家の物置に住んだり、元引揚者でも立てたのか、掘っ立て小屋で暮らしたりした。そんな家も、洞爺丸台風で水没してしまい、住めなくなった、市の計らいで近くにあった、元隔離病棟の病室を借りて住むことになつた。そんな中、趣味で始めた柔道が原因で、急性膝関節炎で、3ヶ月も入院するはめになった。それでも、治ったら又柔道を始めていた、柔道をした証に初段黒帯を締める事を許された。市役所から借りた病棟を払い下げるから退去するよう命じられた、武徳40線3号に解体し運んで家を建てた。昭和32年でした。
34年には結婚をし、1男1女にも恵まれた後に、娘は北大、息子は東北大を卒業させる事ができた.
農業も順調に推移し65歳まで続ける事ができた、そんな中でも趣味で、妻と社交ダンスを始め30年以上たつた。
現在地、多寄町36線西2番地に移住した、その後、77歳まで建築会社に勤め、リタイアした、楽しみにしていた、九十九大学に入学し現在に至っている。
苦しい事もいろいろあったが、現在が1番幸せだと思っている.
(以上)
今日は夕飯は寿司の予定です。僕も2千円出費しました。
ドイチェ・高配当インフラ関連株(米ドル)毎 14,361円( -13円)
アムンディ・欧州ハイイールド債券(リラ) 8,591円( +57円)
ピクテ・新興国インカム株式ファンド 3,834円( +13円)
損益 +1,212,450円 受取分配金1,624,616円
投資金額 4,538,099円 評価額4,125,933円
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