犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

『ノルウェイの森』論(検索1位)より、阿美寮について

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 『ノルウェイの森』の話が注目記事になったりして盛り上がっているようなので、その流れでもう少し続けますか。

 病気になりました、はいどうしましょう、という話があるわけなんですが、転地療法、作業療法などありましょうか。直子に提示された治療方法が京都の山奥の「阿美寮」での生活でした。

 これについて、三節ほどかけて考えた部分が、僕の『ノルウェイの森』論にあるので、少し転載します。

犬儒のHP〜本格派「当事者」雑誌

村上春樹著『ノルウェイの森』論〜統合失調症の恋人 by 犬儒

 

より、以下。

 

 

 


●周縁~世界の終り

 第五章で、ワタナベに直子からの手紙が届き、彼女が京都の山奥の精神科サナトリウムに転地して野菜づくりなどの作業療法をしていることが知らされる。
 私事でなにかとも思うが、家業が元稲作農家で水田は売却して副市街地に家を購入引っ越したが、旧宅地の畑もまだあり、野菜など栽培しているが「発病」後、収獲以外ほぼ野菜づくりにはタッチしていない。僕が選んだことはパソコン通信とかインターネットだった。
 両親とは話題の領域など、ディスコミュニケーションを感じる。
 例えば東京都などだと甲斐性があり、お金がある人しか住めないが、田舎には甲斐性がなく貧乏な人が多い。同じ精神科でも患者の様相が実のところ異なる。
 同病者でも知的レベルの差でやはりディスコミュニケーションの様相が強い。そこで通信で活路を探した結果インターネットということになった。
 僕が野菜づくりをしても、家業の手伝いということに過ぎず、療養にならないのである。
 直子の様子だが、


(以下引用)
 運動をする他には、私たちは野菜をつくっています。トマト、茄子、キウリ、西瓜、苺、ねぎ、キャベツ、大根、その他いろいろ。大抵のものは作ります。温室も使っています。ここの人たちは野菜づくりにはとてもくわしいし、熱心です。本を読んだり、専門家を招いたり、朝から晩までどんな肥料がいいだとか地質がどうのとか、そんな話ばかりしています。私も野菜づくりは大好きになりました。いろんな果物や野菜が毎日少しずつ大きくなっていく様子を見るのはとても素敵です。あなたは西瓜を育てたことがありますか? 西瓜って、まるで小さな動物みたいな膨らみ方をするんですね。
 私たちは毎日そんなとれたての野菜や果物を食べて暮らしています。肉や魚ももちろん出ますけれど、ここにいるとそういうものを食べたいという気持ちはだんだん少なくなってきます。野菜がとにかく瑞々しくて美味しいからです。外に出て山菜やきのこの採取をすることもあります。そういうにも専門家がいて(考えてみれば専門家だらけですね、ここは)、これはいい、これは駄目と教えてくれます。おかげで私はここに来てから三キロも太ってしまいました。ちょうどいい体重というところですね。運動と規則正しいきちんとした食事のせいです。
(以上、第五章 p.160-161)


とのことだが、また私事で恐縮だが、家で食べるもの程度だが、アスパラガス、ラディッシュ、大根、人参、玉ねぎ、ごぼう、ジャガイモ、長芋、ニンニク、長ねぎ、アイヌネギ、白菜、キャベツ、ニラ、モロヘイヤ、ほうれん草、小松菜、三つ葉、水菜、セロリ、紫蘇、アズキ菜、ブロッコリー、いんげん、大豆、小豆、エンドウ豆、黒大豆、トマト、ミニトマト、キュウリ、ナス、ピーマン、トウモロコシ、かぼちゃ、ラッキョウ、メロン、スイカ、イチゴ、ブルーベリー、ぶどう、ラズベリーハスカップ、サルナシ、グミ、グーズベリースモモ、秋田蕗、京蕗、ウドは家で栽培している。
 どうも稲作をやっていた頃は構造不況感が強かったが、近郊農業的なことだと市場に出回る野菜は輸入不可能だったり日本のものが多いので、さほど不況感はないが、僕にはやはり療養にはならない。
 口癖で「人間関係では(サービス以外)なにも生産されない」などとも言ってみるが、やはり社会的動物なので、あまりにも人間関係が希薄だと寂寥感を感じ辛いものがある。


(以下引用)
きれいな空気、外界から遮断された静かな世界、規則正しい生活、毎日の運動、そういものがやはり私には必要だったようです。
(以上、同 p.158)


 僕にとってはそれは畳の上で産まれた時からデフォルトで当たり前のものに近く、普通の空気、普通の静かな世界であり、少年期からの読書癖がインターネットに移行し、睡眠等不規則になっているが、寂寥感は紛れる。
 日中の人間関係で疲れて不眠になるというよりは、全然現実を生きてこなかった感もあるが、読書癖で睡眠障害になったとも思われる。
 おそらく僕は周縁ではなく、中心を目指している。
 まあともかくも、直子は僕になじみ深い「周縁」の所で療養している。これは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に例えると、リアリズムだが、「世界の終わり」の世界である。
 住人は皆「影」を無くしている。
 精神病理学者の内海健の言葉を借りると「主体は世界とのつながり、関わりをもつ地点を見出すことができない。世界の中に自らを映し出す契機を見出すことができない」(『スキゾフレニア論考』星和書店、2002)

 

 

●「コミューン」~「阿美寮」

 村上春樹氏のコミューン的な組織に対する関心はしばしばライトモチーフのように浮上してくる。
 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の塀で囲まれた一角獣のいる「世界の終わり」の世界。あるいは『アンダーグラウンド』などで取材した新興宗教の世界。2009年には『1Q84』が発表され、共産主義コミューンなども描かれた。
 太古くらいから、ユートピア(/ディストピア)としてコミューンが夢想されてきた。
 日本の状況だと、1950年くらいに第一次産業従事者が人口の50%程度であったところ、工業のほうが生産性を上げやすいために、地方から都会等に人口が社会的に移動し、工業化、都市化が進んだ。
 都会に行った地方人は会社組織の中に「ムラ社会」を形成したともいわれる。あるいは新興宗教等で、農園で低農薬の作物の生産販売をしているようなところもある。
 為替レートの変動などを考えても、実際の農村には圧力がかかっている状況で、豊かな生活にあこがれて、というより「仕事がないから」都会に行くというような例も多かった。背景的には人口爆発的な傾向なども挙げられようか。
 いずれにせよ、日本のいたるところで地縁、血縁関係などはその相対的比重を下げるようになった。
 一方、工場などで労働者は「搾取」され、「疎外」されていくとも考えられた。
 文化経済学者の栗本慎一郎氏は「マルクス主義は二十世紀最大の宗教だった」と看破したが、旧東側諸国ではビューロクラシーが蔓延し、パワーゲームが民衆と別のところで起こるだけだった。
 日本の現代史を見てもわかるように、一党支配のような状況だとビューロクラシーは「省益あって国益なし」のような自動暴走機械と化する。実のところ、「階級がなくなれば権力はもはや抑圧的にならない」という予測は、どちらかというと西側諸国の大衆的な政治にその成果を見いだせたかもしれない。
 緑の台詞で「革命が何よ?そんなの役所の名前が変るだけじゃない」(第七章)とあったが、たとえば第二次大戦を起こしたともされる権威主義的パーソナリティなどは現場の小役人などに今でも存在している。
 ともかくも、仕事がないから行った都会に、そんなに「良い」仕事ばかりはないだろう。正当な報酬が受けられないこともあったろうが、実のところ、人工的な生産機械を扱うだけで何らかの疎外感はあろう。品質管理運動なども楽になるというよりは、無駄のないスケジュールでゆとりを減らすかもしれない。
 市場原理の競争ためのコスト削減は非人間的な様相を形成する。
 『ノルウェイの森』では工場労働者は描かれず、「間接労働者」やその修業中の学生などが描かれるが、いずれにせよ、なにかしら疎外されていることは確かだ。
 前置きが長くなってきたが、モデルの有無はわからないが、阿美寮の存在がこういう日本社会の中で際立つ。


(以下引用)
 直子は自分の一日の生活についてぽつぽつと、でもはっきりとした言葉で話した。朝は六時に起きてここで食事をし、鳥小屋の掃除をしてから、だいたいは農場で働く。野菜の世話をする。昼食の前かあとに一時間くらい担当医と個別面接か、あるいはグループ・ディスカッションがある。午後は自由カリキュラムで、自分の好きな講座かあるいは野外作業かスポーツが選べる。彼女はフランス語とか編み物とかピアノとか古代史とか、そういう講座をいくつかとっていた。
(第七章 p.227-8)


 阿美寮の一日のスケジュールである。
 精神科医自身が一日に一時間も患者のために時間を割くこともないとは言えないが、たいへんな治療費がかかる。昨今の実際のところは初診でもなれば3分くらいである。
 米国で勢いのある精神分析などが有名だが、いわゆる神経症圏の疾患に効果があり、精神病には薬物治療が有効だという学説が主流かとも思う。ただ一時間というのも理想ではある。
 この阿美寮はリアリズムの『ノルウェイの森』の中の大きな虚構なのであろう。
 なんとも形容しがたいのだが、競争のための前進が無用の世界である。人間は「餌が獲れなくなったら死ぬ」動物ではないが、協調もできるが、競争もある。片方の要素だけでは生産活動はできない。その「競争」という要素を取り払った世界が阿美寮なのかもしれない。
 夏目漱石の『行人』の一郎の台詞で「死ぬか、気が狂うか、宗教に頼るか」とあったが、キズキは社会を捨て自殺し、直子は「発狂」して、「宗教」に頼っているとも言えるのかもしれない。
 この阿美寮は直子をどこに運んで行くのだろうか。
 そして僕らが居るこの「外」の社会とはいったい何物なのだろうか?

 

 

●「社会」

(以下引用)
 いずれにせよ1968年の春から70年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。
(第二章 p.22)


 学生運動の真っ盛りの時期にワタナベが東京で住んでいる寮の事だが、右翼が経営しているようでもある。それに関する所感だが、例えば最近作の『1Q84』でも共産主義コミューンが突然宗教法人に宗旨替えすという箇所があった。
 単純な図式では、学生運動の空疎さに対比されるのが、阿美寮だろう。


(以下引用)
ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。
(第五章 p.160)


 いささか散文的に作者の主張を代弁するとしたならば、「外」の空疎な人々に必要なのはこの「歪みの自覚」なのだろう。
 都合のいいことに、自分の歪みを意識せずに、一般企業などでそこそこうまく生きていける人がいる。
 大事なことは「協調性」だと言われる。大学生が左翼運動をやっていたら、「協調」し、企業が生産活動をやっていたら「協調」し……。
 実のところ、「日常生活」など忘れられているのである。昨今でも「社畜」になって有給休暇もろくに取らず、「協調」して仕事をしている人が多い。疑念を持たないだろうか。そういう事が真の生産性なのだろうか。何のために生きているのだろう?

 この論説の副題は「統合失調症の恋人」だったはずなのだが、話がずれたような感触を持つ方もおられると思うのだが、例えば統計では一卵性双生児の片方が発病して、もう片方も発病するという一致率が50%にも満たない。一般の兄弟姉妹で10%程度だが、一方、二卵性双生児の一致率はそれより高い。
 後天的環境とか、心理的なものが統合失調症の発病に大きな影響を持つわけである。全くの遺伝病だとしたら、一卵性双生児の一致率は100%のはずである。
 完全に後天的でないことは、親子での一致率が自然発生率より高く、15%程度あることからわかるが、到底遺伝病とは言えない。
 統合失調症の平均発病年齢は30歳程度で、企業なら主任か係長くらいになっているケースも多いだろう。日本では特異的に思春期に発病する「破瓜型」が多いともされるが、先に述べたが、昔発達障害自閉症児を「精神分裂病」の十歳未満発病として取り扱ったため、古い統計では日本では統合失調症の平均発病年齢が低くなっているのである。
 会社のために平社員として駆けずり回っている頃などに病因が蓄積されて発病ぐらいの30歳程度の発病が最も多い。

 また僕のことなのだが、田舎の読書好きの少年が、そのまま中年になったような生活をしており、田舎にいる限り、僕はこれ以上の存在ではないが、それ以下でもないのだろう。実のところ会社員としての協調性や競争意欲に欠けるが、能力が全くないというわけではない。「やりたいこと」が丁度日本の教育制度のカリキュラムと一致していたのである。私生活を楽しむほどの経済的余裕がなかったため、学校の勉強だけでも十分面白いことだったのである。実際の人間関係よりも本を読むことを好んだ。「金がかかる」という事で、中学・高校で親から部活動すらも薦められなかった。
 ……実のところ、企業などでは「使えない」人材である。
 物心ついたころ、義祖父がまだ存命で、堅い木の椅子に座って缶に血痰を吐いていた。パーキンソン病他、いろいろ患っていたようである。父は祖母の連れ子で、実の祖父は父がゼロ歳の頃、小樽港で作業中に事故死していた。祖母は聴覚障害4級で、父が言葉を喋れることからして不思議だが、大家族が教育問題を救ったのだろう。
 僕が小学2年の時、義祖父は亡くなったが、その後の5人家族中、母も片耳が聴こえずセミ十匹分くらいの耳鳴りがするという人物だった。
 父は義祖父から農地を買い上げる形で後を継ぎ、僕が高校の頃まで農協にその借金が残っていたようだ。貧困な農村でもひときわ貧しさの目立つ家だった。
 僕自身は読書家だったが、話し言葉と書き言葉が乖離しており、対話や会話から思考を組み立てた人間ではない。しかして会議などでも生産性の低い論議しかできず、「この男は本当に頭がいいのだろうか?」という疑念を上司などに感じさせるし、そういった乖離は実社会などで思考障害の誘因にもなったのだろう。初診から延々として、医師の診断書には「幻覚:無 妄想:無 思考障害:有」となっている。
 まあ、僕の話も一つのケーススタディーと考えていただきたいが、それくらい統合失調症の「発病(発症)」には後天的要因が強いのだと思う。
 実のところ直子の環境や症例と全く違う感じなのだが、それでも『ノルウェイの森』の作品論を書けないというわけではない。
 僕はここからシグナルを発信することが出来る。あらゆるところに存在する個人への社会からの軋轢の物語がここにもある。僕らは車輪の下で生きている。

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