犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

山雨乃兎さんの『癈人つくりて…』のご紹介

 3月29日に山雨乃兎さん、ご紹介しましたが、中編小説『癈人つくりて…』の最初の方少し紹介させてください。

 まあ、これも入院体験を元に書かれたものです。

 基本が陽性の方で、中間小説的ですが、ペーソスがありましょうか。

 よろしければ、これだけでもお読みくださっても。あと2篇は300枚ずつくらいありますので、ご覚悟を。(爆)

 

犬儒のHP〜本格派「当事者」雑誌

より、

以下転載

 

 

 

癈人つくりて…
          山雨乃兎


「賢治! やめるんだ!」
 俺は、そう言って弟の腕を剛く掴んだ。
 兄に従った弟だったが、その顔色は蒼白で覇気をすっかり失っていた。
 俺の弟、黒岩賢治は、俺とは四つ違いの社会人で、この四年間地方都市であるこのT市でゲリゲンという製薬会社の地方工場で製造ラインの課長職につき、その実質的責任者を入社三年目の昨年からしている。
 その彼に、一体何が有ったのか? 家族である俺にも推測しかできなかった。昨日の夕方、やけに静かだと思って彼の部屋を覗くと、天井に荷物梱包用の紐を括り、まさに首を吊ろうとしていたのだ。
 総てを後回しにして、俺と母は、今、彼を病院に運んでいる。
 会社が、会社に、……兄さん! 会社に連絡を……、今、休む訳には……等と、賢治は、俺の車のなかで洩らし続けたが、そんなことは事後処理で充分なのだ。死ぬ程、苦しんでいるのに仕事も何も有ったものでもない。
 精神科に診察を受けに行く、という事が、自分達とは一生関わりがないほど遠い世界の事と思っていた俺だが、世間的体裁などもうどうでもよかった。
 賢治は、ときどき俺に停車を催促した。三十分に一度くらいの割で嘔吐するのである。この半年ほどの間に10キログラム近く彼は痩せた。昨夜は、一睡もできなかったらしく、水分だけでも嘔吐を繰り返す始末だった。現に、さっき喜んで飲んだペプシコーラも吐き出している。スペシャルGTカーのシルビアの助手席布シートは、きぶい匂いの溶液に侵され、一瞬で女を誘えない車になってしまった。
 車で一時間懸かって栗山病院という大きな精神科の病院に着いた。
 電話であらかたの予約めいた事をしていたにも係わらず、診察の呼び出しが掛かるまで二時間強待った。
 その医者は、まず、自己紹介した。
「精神科医の吉川と言います。」
 四十代前半といった処だろうか、体力を使わず、学問的な仕事ばかりやってきた人間に、俺の目からは見えた。躯は細く、顔も面長で、青白い。
「こちらには、どなたかのご紹介で?」
 と医師は訊いた。
 俺は、昨日、弟が、急に首を吊ろうとしているのを見て驚き、旧知の先輩の萩原さんから彼も通っていたこの病院を思いだしてここに連絡をとってやってきた、と手短に話した。
「弟さんの病状に最初にお気づきになったのはいつ頃ですか?」
 俺は、家族には、昨日の発作的な自殺未遂があるまで、全然判らなかった。彼の悩み自体は、もう少し前から有ったのかも知れない、と言った。
「失礼ですが、お兄さん。ご家族に精神的なご病気になられた方は、例えば、お爺さんやお婆さん、または、従兄弟や叔父さんとかにいらっしゃいますか?」
 俺は、居ない、と言った。しいて言えば、病気ほどではないが精神的に弱いのは、この俺自身くらいだ。
「それでは、色々とテストやカウンセリングをしますので、お兄さんとお母さんは、待合い室でお待ちください」
 と、吉川医師は言って、俺たちに退室を促した。
 他にも大勢の通院患者が居たにも係わらず、賢治の診察には、約一時間半ほど掛かった。
 その間に、看護師が、俺と母の処に来て、時間が掛かりますので、よろしけば昼食を摂って来てください、と言った。
 俺たちが、近くの食堂で親子丼を食べて帰ってくると、やっと賢治の診察は終わり、俺たちは、診察室Bに通された。
「弟さんのご病気は、鬱病です。ただ、何が根本的原因になっているのかがはっきりしません。お仕事の事は大きいと思います。しかし、直接の原因がそのお仕事の事とは、思えませんし、……勿論カウンセリングもしましたし、……けれども、今の処は、原因がはっきりしません。……ご存じかも知れませんが、鬱病の場合、ご本人も気づいていない事が原因で、それが判らない事も多いのですよ。」と言って、医師は、今書き込んだばかりのカルテに、一旦、目を移し、それから、ゆっくりと顔を上げて、俺の方に視線を合わせて続けた。「どうでしょう。一旦、入院されては? ご本人も死のうとなさるくらいですから、決して病状は軽くはないのです。幸い、今は、向精神剤という薬も殆ど副作用の無いものが主流ですし、鬱病は、緊急避難的な意味では投薬治療は、功を奏するのです。・・・そして、入院中に原因がはっきり掴めれば、根本的にも治す事はできます。」と言った。
「そうですか、それなら、そうさせてもらおうかなあ、お母さんもいいだろう。……それより、賢治は、それで、いいのか?」
 と俺が言うと、
「僕は、会社の事が……」
 と、弟は言った。
「仕事は、治ってからでも、何とかなる。健康に成れば、他の仕事にだって就けるかもしれんし」
 と言って、俺は、賢治を宥めた。
「焦るな。まだお前は若い。」
 と、俺は賢治を諭した。
 賢治は、今年の誕生日で二十九で、まだ独身だった。
「それでは、こちらの任意入院同意書に、賢治君と、身元保証人の所にお兄さんの署名をお願いできますか」
 と、細い医師は言った。
「それでは、病室に行きましょう」
 と、吉川医師が言って、俺も母も賢治と一緒に付いて行った。
 新館棟は、五階建てで横に広くかなり大きかった。俺たちは、その途中で九十度に折れ、旧館棟に入って行った。二階の渡り廊下を過ぎて、エレベータに乗り込む。看護師一人と医師と賢治と俺と母が乗れば、そのエレベータはもの凄く窮屈になった。
 三階で降りる。
 人が一人しか通れない通路を通って、三階病棟のナースステーションに入った。カルテが営業台帳のような厚さで作られていてそれが丸テーブルの上に回る三百六十度から差し込む本棚になっているところに詰め込んであった。
「ここからは、ご家族は入れません。」
 吉川医師は、そう言うと次の透明なドアを押して、賢治と一緒に次の部屋へ入っていった。
 今まで俺たちと一緒に来た看護師が、身を返して、
「ここは、閉鎖病棟なんですよ。どなたが入院なさっても、初めはこの閉鎖病棟から、さらに、初めはその奥の保護室からスタートして戴きます。」
 と、言った。
 二十代後半の柔道家のように屈強そうな体格の看護師だった。
 その看護師は、ナースステーションに前から居た女の看護師と一旦、目を合わせた。その途端に二人は、同時に嗤った。口の端を少しだけ下に曲げ、目も同時に虚無的な嗤いを浮かべた。かわいそうな人間を哀れむのと同時に蔑む、また、社会の落伍者が入って来たぞ、というふうにその特別な仕事を愉しんでいるかのような嗤いだった。
 賢治を保護室に入れた吉川医師は戻ってきて、俺たち3人は、また診察室に戻った。
 ケースワーカーを含めて、俺と医師と母は、賢治の今後の診察プログラムやら、入院中要る物の案内などの話しをした。差額ベッド代などは、ひと月10万ほどは掛かるらしいのだが、それは、本人の入っていた生命保険で済みそうだ。
「大体、三ヶ月くらいで順調にいけば退院できます」と、吉川医師は言った。そして、おもむろに俺の顔を覗き込んで、「お兄さんも、思わしくありませんね」と言った。
「何がですか?」
 と、俺は不審に思い訊く。
「貴方の目ですよ。それは、破瓜型ノイローゼの人の目です。ご本人には判らないのかも知れませんが、私の今診る所、貴方のほうが弟さんよりも重篤だ。」
 俺は、医師の言っている事が理解できなかった。
 吉川医師が診察室から急に後ろのドアに出て行き、その数秒後、白衣を着た中背で細く吉川医師よりは少し色の黒い男が、そのドアから出て来た。
「医師の中川といいます」
 と彼は言い、簡単な触診と打診をして、その後、吉川医師も診察室に戻ってきた。
「すぐ、入院しましょう。」と吉川が言うと、診察室の奥の部屋から男の看護師が二人出てきて医師とケースワーカーと合わせて五人に俺は取り囲まれ、賢治の入れられた閉鎖病棟の方へ引っ張られて行った。
「一寸! 先生!」と母が、その剰りにもの理不尽さに口を開いて抗議したが、これだけの人数では、俺も母も抵抗できなかった。
「おい! こんな事! 拉致監禁じゃないか! これは、犯罪だぞ!」と、そこまで言った俺の口を看護師の一人がガムテープで塞いだ。
 数人残った通院患者達は、不思議そうに、その様子を見ていたが、医師達は少し彼らに向かって愛想笑いをしながら、俺を連行した。

 俺は、賢治と同じ閉鎖病棟の、賢治とは違うフロアの保護室に入れられた。
「黒岩さん。ゆっくり治しましょう」
 と言って、吉川は保護室に施錠した。
 一回転させて掛かる鍵の音は、疲弊した機械の歯車の諦鳴となって部屋の無機質さを誇張しつつ二回響いた。
 このフロアのナースステーション前の廊下で俺は、渾身の抵抗を行った。看護師二人に、俺のフックがヒットしたが、その後すぐ俺の右腕は、例の柔道体型の看護師にねじ上げられ、肩が脱臼するかと思われるほどの痛みの為、俺は、戦意を喪失せざるを得なかった。
 医師達に対しての反撃、そして、今、どう自分が切り抜けるかだけに必死だった為、俺は、何階フロアに連れて来られたのかも分からなかった。
 保護室の壁は、全面縦の柱の様な数十枚の羽目板に緑のペンキの塗装がしてあった。床はコンクリートだが全面緑色にペイントされていた。天井も材質は木の板だが、ミントグリーンに塗られていた。
 俺は、相手より高い位置に自分を置こうと努めた。
 本当に困っている様子を看護師達に悟られるのは癪である。
 煙草でも吸おうと思った。
 それは、無いのだった。既に身に付けていた物は総て没収されている。
 北に面した窓は小さく高い位置にあった。鉄格子が入っている。その上、ガラスのない吹きさらしだ。置かれているベッドの上に立てば病院裏のグランドと駐車場が見えた。その奥は森のようだった。

 

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