犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

これ怖いっすよ。芥川龍之介『影』(統合失調症)

 以下、芥川龍之介『影』1920、より

 

 

 

「ああ、今夜もまた寂しいわね。」
「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」
「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も山内《やまのうち》先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」
 老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると子供らしい房子の顔には、なぜか今までにない恐怖の色が、ありありと瞳《ひとみ》に漲《みなぎ》っていた。
「どう遊ばしました? 奥様。」
「いいえ、何でもないのよ。何でもないのだけれど、――」
 房子は無理に微笑しようとした。
「誰か今あすこの窓から、そっとこの部屋の中を、――」
 しかし老女が一瞬の後に、その窓から外を覗《のぞ》いた時には、ただ微風に戦《そよ》いでいる夾竹桃の植込みが、人気《ひとけ》のない庭の芝原を透《す》かして見せただけであった。
「まあ、気味の悪い。きっとまた御隣の別荘《べっそう》の坊ちゃんが、悪戯《いたずら》をなすったのでございますよ。」
「いいえ、御隣の坊ちゃんなんぞじゃなくってよ。何だか見た事があるような――そうそう、いつか婆《ばあ》やと長谷《はせ》へ行った時に、私たちの後をついて来た、あの鳥打帽をかぶっている、若い人のような気がするわ。それとも――私の気のせいだったかしら。」
 房子は何か考えるように、ゆっくり最後の言葉を云った。
「もしあの男でしたら、どう致しましょう。旦那様はお帰りになりませんし、――何なら爺《じい》やでも警察へ、そう申しにやって見ましょうか。」
「まあ、婆やは臆病ね。あの人なんぞ何人来たって、私はちっとも怖《こわ》くないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」
 老女は不審《ふしん》そうに瞬《まばた》きをした。
「もし私の気のせいだったら、私はこのまま気違《きちがい》になるかも知れないわね。」
「奥様はまあ、御冗談《ごじょうだん》ばっかり。」
 老女は安心したように微笑しながら、また紅茶の道具を始末し始めた。
「いいえ、婆やは知らないからだわ。私はこの頃一人でいるとね、きっと誰かが私の後に立っているような気がするのよ。立って、そうして私の方をじっと見つめているような――」
 房子はこう云いかけたまま、彼女自身の言葉に引き入れられたのか、急に憂鬱《ゆううつ》な眼つきになった。
 ……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《におい》のする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやり明《あか》るんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側に佇《たたず》みながら、眼の下の松林を眺めている。
 夫は今夜も帰って来ない。召使いたちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、間遠《まどお》に低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。
 房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に目ざめて来た。それは誰かが後にいて、じっとその視線を彼女の上に集注しているような心もちである。
 が、寝室の中には彼女のほかに、誰も人のいる理由はない。もしいるとすれば、――いや、戸には寝る前に、ちゃんと錠《じょう》が下《おろ》してある。ではこんな気がするのは、――そうだ。きっと神経が疲れているからに相違ない。彼女は薄明《うすあかる》い松林を見下しながら、何度もこう考え直そうとした。しかし誰かが見守っていると云う感じは、いくら一生懸命に打ち消して見ても、だんだん強くなるばかりである。
 房子はとうとう思い切って、怖《こ》わ怖《ご》わ後《うしろ》を振り返って見た。が、果して寝室の中には、飼《か》い馴《な》れた三毛猫の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の仕業《しわざ》であった。――と思ったのはしかし言葉通り、ほんの一瞬の間だけである。房子はすぐにまた前の通り、何か眼に見えない物が、この部屋を満たした薄暗がりのどこかに、潜《ひそ》んでいるような心もちがした。しかし以前よりさらに堪えられない事には、今度はその何物かの眼が、窓を後にした房子の顔へ、まともに視線を焼きつけている。
 房子は全身の戦慄《せんりつ》と闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、咄嗟《とっさ》に電燈のスウィッチを捻《ひね》った。と同時に見慣れた寝室は、月明りに交《まじ》った薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。寝台《しんだい》、西洋※[#「巾+厨」、第4水準2-8-91]《せいようがや》、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い幻《まぼろし》も、――いや、しかし怪しい何物かは、眩《まぶ》しい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超越した恐怖が、……

 

 

 

以上抜粋。

 怖いですね。『歯車』もかなり怖いですけど。

 統合失調症に取材したというか、そういう作品だと『河童』などもありました。

 治療技術が進んで、発病後も創作活動はできると思うので、僕らはぜひ頑張りましょう。

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