犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

fool's kneelさんの『南十字星流星群』のご紹介

 入院体験お持ちの方、当誌には多いんですが、そのまま書かないで文学的に昇華された作品などをお寄せいただいています。

 fool's kneelさんは大学浪人中に発病して入院なさったんですが、三人称の小説形式になっています。

 『南十字星流星群』ですが、文芸社に送ったところ、9%の「共同出版」の枠に入ったんですが、著者負担分の210万円がなくて出版を断念しましたが、当誌で発表させていただいております。

 冒頭の方、ご紹介させていただきます。よろしければ当誌の方で通読してみてください。硬派なポエムなどもちりばめられています。

 

犬儒のHP〜本格派「当事者」雑誌

より

(以下転載)

 

 

南十字星流星群
          fool's kneel

 

1/BLUE DAYS

  1992年の8月、シュウは精神病院の2階の窓際のベッドにいた。鉄格子の窓から8月の青空を見上げていた。シュウは18歳だった。古い病棟ながらも清潔なベッド。受験のことも忘れていた。何も考えず、静かな病室で、鉄格子の窓から見える病院の中庭の、テニスコートの脇にある枯れかかったようなひまわりを見ていた。とにかく彼は何の病院か分からないが、病院にいて、唐草模様の鉄格子付きの窓際のベッドでぼんやりしていた。それ以前の夏の灼熱にも負けない生命力の爆発状態は消えていた。住み込みで新聞配達と予備校に通っていたこともすっかり頭になかった。ただ安らかに、静かで清潔な病室のシーツの上でそうしていた。
 「コーヒー飲む?」
 向かいのベッドの平凡な感じの小太りの50代くらいのおじさんが、話し掛けてきた。シュウは言った。
 「飲みます。コーヒー好きなんです。」
  すると彼の横のベッドのやけに色の白いハンサムな30代くらいの男性が話しかけて来た。
 「いくつ?」
シュウは答えた。
 「18です。」
 「若いね。」
  3人でインスタントコーヒーを飲んだ。ここはどんな病院なんだろう。みんな何の病気なのかなあ。それ以上何も考えられなかった。静かで、今思えば、それは幸福な場所と時間だった。廊下に出る。オレンジ色のビニールの廊下と病室。ふらふら歩いて、そこの病棟がT字になっているそんなに広くはない病棟だと分かると、またベッドに戻った。
  何も考えない静かな時が流れる。世界から切り離された場所。
  穏やかに日々は流れていった。
  朝食の時間がきた。食パン2枚と小さなマーガリンのパックとグレープフルーツと、学校給食のとき飲んでいたような小さな牛乳。牛乳が少なくてパンを飲み込むのが大変だった。ちょっとづつパンと一緒に食べた。マーガリンが少なすぎて全然足りなかったがみんな静かにおとなしく食べていた。
  みんなどことなく社会人ではないなというのは分かったがなんだか、その中にいると安らげた。
  薬の時間がくる。大量の粉薬を飲む。別に僕は何も考えない。昼ご飯がサンマでちょっと古そうだけど僕もみんなもおとなしく食べる。看護士が並んで立っていて笑いながらうんこの話をしている。僕はおこった。
 「きたないなあ。ご飯食べている時に。」
 若い看護士は、急に更に笑顔になって「失礼しました!」と頭を下げた。
  夕方になってがらんと空いたホールに夕暮れの雰囲気が流れ出してきた。
  数日がたった。「ここは何だ?外に出たい!」看護士にそういうとそれは無理との事だった。そこで初めてそこが閉鎖病棟であることを知った。けれどしばらくして、みんなが病院の屋上に出られるようにしてくれた。
  屋上に出た。素晴らしくいい天気で、そこから見える病院の敷地で、スタッフらしき人がソフトボールをしていた。看護婦さんらしき女の人が遠くからこっちを見た。きれいな人だなとなんとなく思った。
  それからも毎日ご飯と薬と暇な時間が流れた。ふと受験のことが頭によみがえってきた。そうだ勉強しなくちゃ。母親に参考書をもってきてもらう。だけど机がない。
「机がないです。なんか机みたいの下さい。」
看護婦さんに言った。
  困ったような顔をした看護婦さんは、ベッドサイド用の小さなタンスを僕にくれた。スライド式に小さな板が出てきて、そこに参考書を広げた。だけど自分の頭がなんだか以前と違う、数式を見たときに感じる激しいスパークがない。やけに問題も無意味な記号のように思えてきた。そこでまた新たに気付いた。
 「手が良く動かない!字が書けない!」
  シュウはナース室に行き、主治医に
「字が書けないんです。」と訴えた。
  医者はうなずいて、白い紙とボールペンを差し出し自分の名前を書くようにと言った。
  僕は自分の名前を書いた。手が震えてこわばったような感じでうまく書けない。だが、何とか書いた。
 「書けてますよ。」
 医者が言った。その優しいトーンに、シュウはそれ以上自分の困惑を話すことを止めてしまった。今から思うとそれは古いタイプの抗精神薬の副作用だった。
  平和な日々が流れた。静かで、落ち着いた、世界から隔絶されたような雰囲気だ。みんな静かだった。気付かなかったが、悪口や不平というトーンの言葉はひとつとしてなかった。ただ、静かな夏がそこにあった。
 2週間くらいたっただろうか、僕は退院したくなった。なんだか分からないが掃除をすれば早く退院させてくれるだろうと思い、食事の後の掃除を一生懸命やった。
  その3週間後、僕は退院した。


 2/BLUE DAYS2
  1992年春、大学受験に失敗して、高校を卒業した春、「これからは自分の足で立たなくては。」と、シュウは埼玉の実家を出て、東京で住み込みで新聞配達の仕事を始めた。シュウの家は母子家庭で、シュウには妹が一人いて、もうこれ以上誰にも、負担はかけられないと思ったのだ。
  引越しの荷物を、新聞販売店の寮に送り、シュウは埼玉を出た。東京の寮に着いて、自分の部屋に案内され、そこから、夕暮れの、東京の郊外の住宅街の景色を眺めていた。旅に出た気分でもあり、これからなにもかもが新しい日々が始まるのだ、そして、自分の力で生きてゆくのだ、そう思うと、期待と誇らしさで胸が一杯になった。
  シュウはちょっと出っ歯で近眼で眼鏡をかけていたのだが、髪は、ちょっとボブっぽくしていて、それらがうまくマッチしていた。
  仕事は早朝3時からだ。新聞に広告を折り込み、それを自転車で配る。
  140件ほどだった。最初は、店の人が、一軒一軒、付いてきてくれたが、やがて一人でできるようになった。配り終える頃にはビルの向こうに朝日が昇っていた。それをシュウはとても綺麗だと思った。
  店に戻って、朝食を食べると、予備校へと通った。
  予備校では寝てしまっていた。シャーペンをジーンズに突き刺してみたが無駄だった。
  予備校が終わり、店に戻って、夕刊を配る。
  ある日のこと、シュウは、自分で生きているのだから、何かおいしいものでも食べようと、ステーキ屋に入り、サイコロステーキを頼んだ。18歳の少年が一人で、サイコロステーキを食べているのを、店内に他の客が2、3人いたが、好意的に見守ってくれているように感じた。
  ある早朝のことだ。スポーツ新聞がトラックで配られてきて、どぎつい朱色の文字で「尾崎豊変死」と書かれていた。尾崎豊のファンで、埼玉を出るときに「坂の下のあの街の中で」を心の中で歌いながら出てきたシュウにとってはショッキングなことだった。「でもまあ、尾崎らしいかな」とクールに受け止めて、その日の朝刊を配り終え、また日常に戻っていった。
  シュウが涙を流しても流しても止まらないほど、尾崎豊の死を悔やんだのは、それから15年後、長い失業中に、「THE DAY(約束の日)」vol1.2を聞いていた時だった。 
  そんな毎日がつづく中、確かな肉体的、精神的疲労が、シュウの体を蝕んでいった。その疲労と戦うようにシュウは毎日、栄養ドリンクを飲みつづけていた。時折、不可思議な言葉が、彼に聞こえたが、彼はなんとなく不思議で怖い気持ちを経験したが、忘れるようにしていた。
  ある日の夕刊の支度をしている時だった。そう8月の午後3時、シュウは猛烈な吐き気を覚え、排水溝のところまでよろめいていった。ゲーッとしたが何も出てこない。シュウは跪いた。店長が出てきて、休ませてくれた。その晩の事だ。
  「お前は最悪だ」と若い男女6人くらいの声が、急に聞こえてきた。シュウは、混乱し、次の日も休みをもらうと、混乱したまま埼玉の実家へと帰った。翌日、母が迅速に精神科に連れてゆき、即入院となった。母はうつ病の気があり、その精神科に通院していたので、「これは精神科に連れて行かなければ」と、即座に判断できたのだ。
  退院してからシュウは母に「俺、なんていう病気?」と聞いた。そしたら母は困ったような顔をして「せいしんぶんれつびょうだって・・・。」といった。その病名は訳がわからなかったが、軽くショックだった。母の困った顔が、34歳になっても忘れられなかった。

(以上転載)

 

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