犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

当誌のもう一つの『ノルウェイの森』論

 世界的ともいえる大ベストセラー『ノルウェイの森』ですが、ヒロインの一人直子の病気に関して、なんだかよくわからないで読んでいた方も多いと思います。

 縊死の直前くらいに幻聴などがあったと書かれていますが、まあ先行していた病状は統合失調症陰性症状かとも推測されます。

 これはまあ、統合失調症の何十例に一例か程度ある、「単純型統合失調症」かとも推定されます。陽性症状がなく、陰性症状無為自閉、感情鈍磨、思考障害)等あるという亜種です。他は、「破瓜型」「緊張型」「妄想型」等あります。

 

 

 先週末、僕の『ノルウェイの森』論を紹介させていただきましたが、当誌にはもう一つ『ノルウェイの森』論があります。国際結婚して渡欧なさった谷口水夜氏の「『ノルウェイの森』論~エロスと自由の狭間に落ちて」です。

 今のところ、ヤフー検索では僕と谷口さんで、検索上位1,2フィニッシュになっています。

 他、当誌で村上春樹作品論4点検索トップになっていると書きましたが、「『1Q84』論」のトップは谷口さんです。(別ハンドルネーム「鬼武彦」さん)

 

 高校二年の三学期に「自律神経失調症」で休まれたそうですが、その後、教育大学2年の時にも入院されて統合失調症と診断される。中退後、エスペラント語が縁でポーランド人の奥様と結婚なされて渡欧なさいました。5ヵ国語程度話されるようです。

 病気を克服なされて高校首席卒業だけでも素晴らしかったと思います。

 冒頭の方紹介させていただきますので、興味のある方は、『本格派「当事者」雑誌』の目次の方からご覧ください。

 それにしても、精神病のヒロインの出てくる小説が大ベストセラーになっても、医療福祉は進まず、差別と偏見は残存している。大変な矛盾を感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

ノルウェイの森』論(上)~エロスと自由の狭間に落ちて

                               谷口水夜

 


村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 刊 


(引用開始)


「その手のことって私にはすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」
「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。
「それーー本気で言ってるの?」
「もちろん本気だよ」
 直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面
から、僕の目をじっとのぞきこんだ」


村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第一章 16ページ)

 


 依存という言葉がある。これは『ノルウェイの森』を最後まで読んだ感想だが、直子はワタナベ君を愛していた、というよりも、依存、していたのではないだろうか。


(引用開始)


「あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの?ねえ、そんなの対等じゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう。」


(同書、17ページ)

 


 直子はその、人間関係とも呼べない間柄に、ワタナベ君となっていることに心を悩ませているのではないだろうか。これは一種の直感なので、特にどれを証拠に上げることもできないのだが、直子とワタナベ君のような人間関係を、依存、という視点で日常観察していることがあるので、ふと思った。
 直子はそんな依存の関係に自分が陥ることに、必死に抗っているようにも見える。もしかしたらそれは、ワタナベ君との関係に限らず、直子にとっての人生でのライフワークに近い問題だったのかも知れない。それは最期の自殺という、破局まで続く。

 

 


(引用開始)


 いずれにせよ1968年の春から70年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。


村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第二章 27ページ)

 


 ここに、ワタナベ君の世界観が端的に現れている。彼にとって「日常生活」というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。
 あるいはそれは、逆に彼の潔癖な性格の裏側となって表現されているのかも知れない。
ワタナベ君は、本当は偽善も偽悪も右翼も左翼も嫌いなのだ。けれど、日常生活、というレベルから見ると、それらはたいした違いも現れない陳腐なものとしての価値しかない、ということを、ワタナベ君はよく知っているのだろう。だから彼は、そんなゴミ溜めのような寮で、2年間も生活ができたのだ。

 

 

 


(引用開始)


 あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、キズキと最後に会って話をしたのが彼女ではなく僕だったからかもしれない。こういう言い方は良くないとは思うけれど、彼女の気持ちはわかるような気がする。僕としてもできることならかわってあげたかったと思う。しかし結局のところそれはもう起こってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方のない種類のことなのだ。


村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第二章 50ページ~51ページ)


 ここにもワタナベ君の人生観が現れている。


「しかし結局のところそれはもう起こってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方のない種類のことなのだ。」


 ワタナベ君にとって、起こってしまったことは仕方のないこと、なのだ。これは当たり前のようだがあっさりとそう言って実際に人生を生きているひとは少ない。多くのひとはすでに起きてしまったことをいつまでもひきずって、積んだり崩したり、ということを繰り返していたりする。
 あるいはワタナベ君もそうなのかも知れない。だが、少なくとも意識の上では、ワタナベ君にとって起こってしまったことは、どう思ったところで仕方のないもの、と片付ける事柄として、整理はついているのだろう。そこが彼の非凡なところでもある。

 

 


(引用開始)


 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。


村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第二章 54ページ)

 


 死は生の中にある。それは離ればなれのものではない。
 例えばそれはちょっと買い物に出掛けた身近な時間や空間の中にもひそんでいる。遠くのどこかに離れているのではなく、いま、ここ、この日常の中に死はひそんでいる。ただひとびとは、そんなことも忘れてただ、人生の闘いに明け暮れ、死をあたかもどこか遠くの果てしないいつかの存在として捉え、忘れているのだ。

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