犬儒のブログ

当事者のアマチュア文芸雑誌の編集顧問を務めています。『ノルウェイの森』の直子と同病の単純型統合失調症です。

20世紀の三大作家の一人フランツ・カフカは統合失調症でした。拙論「村上春樹著『海辺のカフカ』論」より

 ホームページも15年くらいやっているので、いろいろ文書も溜まっています。

 一応文学サイトだったりするし。

 僕自身は文芸評論から始めて、そのあと編集を始めて、創作も少しやりました。

 2005年から他の方の創作作品なども集めてホームページを改装して『本格派「当事者』雑誌』というのをやっています。統合失調症のライターの方多いです。一応純文学を標榜しています。

 ええと、二十世紀を代表する作家だと『失われた時を求めて』のマルセル・プルースト、『ユリシーズ』のジェイムス・ジョイス、もう一人挙げると『変身』等のフランツ・カフカが挙がることが多いようです。

 以前、福永武彦の『死の島』の舞台が『ユリシーズ』のちょうど50年後ですよー、ってご紹介した事がありますが、ジョイスの娘さんが統合失調症だったそうで、親子で話を合わせるのが上手かったようです。

 カフカは自身が統合失調症で、なにか不条理文学のようなのを書いていました。

 2002年に村上春樹さんの『海辺のカフカ』出版されました。

 この作品に関して、作品論を書いてあるので少しご紹介します。

 

 

 

村上春樹著『海辺のカフカ』論〜自らが存在するための神話 by 犬儒

 

●濃密な意味づけ

(以下引用)
神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求であり、他方、魔術の知の根底にあるのは、私たちが偶然にみちた世界のなかで自分たちの生存を脅かしたり運命を左右したりする超自然的な存在の意向に適うことによってその力を借りようとする願いである。
(中略)
ということは、世界や実在から濃密な意味および私たちとのつながりをとり去り、それらを支配しようとする意思を根柢にもつ科学的な知の場合と、世界に対する態度として反対であるということである。世界に対する態度として科学的な知が能動的であるのに反して、神話の知や魔術の知は受動的なのである。

(『哲学の現在』中村雄二郎、岩波新書、1977)

 読者はファンタジーに慣れている。……というと奇妙な書き出しになるが、もはや迷信や迷妄と戦わなければならない時代ではないかもしれない。一見非合理的なものの心理的なメカニズムを解明しなければならない。……というとまた誤謬があろうかと思うのだが、ともかくも、人間の本性がどこにあるのかははっきりしないが、例えば占いとか、たわいのないことは現代に満ちあふれている。
 こういった「たわいのないこと」は近代のロゴスの追及による物質文明という生活基盤が可能にしたわけなのだが、「楽になっておもしろいことがやれるようになった」というとやや外れてはいよう。

 再度中村雄二郎(1925-)の言葉を借りると、

(以下引用)
しかしその後、機械文明の大規模な発展ととくにそれにともなう社会の人工化やさまざまな記号と情報の氾濫は、明らかに新しい魔術的な時代を生み出している。そこには、近代文明の自然支配、自然に対する人間の能動的支配の果てにあらわれた、自然や世界と私たち人間との関係の逆転がある。働きかけの対象として意味を奪われた部分化された自然的な、また人工的な物や記号が世界のなかで意味を回復しようとする運動があり、そのなかで私たち人間は気がついてみるとふたたび外界から強く働きかけられる受動的な存在として生きなければならなくなったのである。
(同)

 こういったことは、あまりありがたい状況とはけっして云えまい。

 話を『海辺のカフカ』に戻したいのだが、村上春樹氏の作品はファンタジーの要素を含んだものが多い。長編で例外は『ノルウェイの森』(1987)程度であろうかと思う。なぜ彼はファンタジーを書くのか? これは先に引用した我々の閉塞状況に対する一石と考えられるかと思う。

 まずはナカタさんが猫と会話しているのだが、この小説は『ドリトル先生』(1930頃)よりは幾分、いや、悲痛に近いテーマを持っていようかと思う。

(以下引用)
        ネコ
多くのネコたちは名前を持たない。多くのネコたちは言葉を持たない。
しかしそこには言葉を持たず、名前を持たない悪夢がある。
(以上引用)

 単行本の帯のコピーであるが、おそらくナカタさんのネコに対する思いは人類愛のメタファー的なことはあろうかと思う。受動的に生きざるを得ない「我々」に対するメタファーである。ネコは穢れのない存在とも言えよう。「人間は死んでもいいがネコは死んではいけない」と語った音楽家もいた。
 ネコ殺しのジョニー・ウォーカーを刺した後、ナカタさんはネコ語が話せなくなってしまう。だが、物理的には更にスケールアップしたことが起こる。東京中野区に二千匹の魚が降ってくることを予言するのである。竜巻もなにもないのに突如いわしやあじが降ってきたのだった。

 ここで思い出してほしいのだが、「いわし」は『羊をめぐる冒険』(1982)にも登場した。
 拙著「村上春樹著『羊をめぐる冒険』論~北海道から見た日本近代」(2002)から引用すると、

(以下引用)
 名前のない猫、これは漱石自身の、関係の中で不可解である自分自身というものに対する疑問を原形質で語る分身だったようにも思う。
 この、猫が時代と作者を超えて、『羊をめぐる冒険』にも登場したとも言えるかと思う。名前がないのはなんだから、命名しようということで、初めてこの猫に名前が与えられる。ただそれは、群れの中の一匹のような「いわし」という名前であった。不可解は群衆の中に埋没する一人、となる。

(以上引用)

 ネコ→いわし、というのは不条理的な移行である。濃密な意味づけが埋没の中で意味の喪失に近づいている。二千匹の魚や蛭が降ってくるのは派手な現象であるが、世界への親密性というよりは無機質的な変化への後退である。

 ただ、物語の各所で無機的なものが意味を得るという筋立がある。ちなみに統合失調症では、一般の人が当たり前(自明)と感じることが病的に恣意的にしか感じられないという病理がある。物語では、偶然ではなく人生に自明性のあることの貴重さが表現されている。これは自明性の重要さを照らすことにより病の不幸さが表現されていることが、個人的にではあるが、感じられる。

 ともかくも、我々は、村上春樹氏の語る、人間の世界に対する「濃密な意味づけ」のその行く先を見定めなければならないだろう。我々ははたして、どう生きていけるのだろう。

 

犬儒のHP〜本格派「当事者」雑誌

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